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2016年3月

2016年3月31日 (木)

イサム・ノグチ・ルーム他、三田キャンパスでの美術鑑賞会:

イサム・ノグチ・ルーム他、三田キャンパスでの美術鑑賞会: 杉並三田会の分科会である『美術鑑賞会』の定例会参加で、これまで、気が付かなかった学内の貴重な美術収蔵品を、解説付きで、観賞することが出来たのは、有難いことである。何でも、今回は、三田キャンパスに保存されている、著名な彫刻家イサム・ノグチの「ノグチ・ルーム」を特別に公開していただき、調度品も含めて、新校舎内に移築保存されている部屋を鑑賞するとともに、解説を、慶應義塾大学の渡部葉子アート・センター教授にお願いして行って戴くということであった。その前に、まず、最初に、渡部先生に解説レクチャーを受け、その後、大学構内を歩いて「ノグチ・ルーム」を特別見学、併せてキャンパス内のイサム・ノグチ、猪熊弦一郎等の彫刻も鑑賞出来るというものであった。全く、学生時代には、そんな貴重な美術所蔵品が たくさん、構内にあるとは、つゆ知らずに、過ごしたものである。知らないということは、恐ろしいことで、別に、知らなくても、生きていけることに違いはないのであろうが、折角、そこに学んでいる学生や卒業生には、やはり、その歴史的な経緯を知って貰っても、決して、損はないであろう。うすうす、ノグチ。ルームなるものの、存在は、知っていたが、それが、何処になり、又、有名な、『無』の石像の意味も、或いは、戦後の空襲から復興する過程での建築物や構内に置かれたブロンズ像、新旧図書館にさりげなく飾られているステンドグラスも、絵画にも、更には、萬来舎に置かれた美術品なども、確かに、謂われなければ、明治期と江戸期の文化・芸術の融合が見られるも、説明を聞かなければ知らないことばかりであった。自らの血筋と、父親との葛藤と、日米間の政治的な戦争と歴史の狭間に、親指と人差し指を丸く、円環に、交差させた中には、『禅の思想』が、密かに、その底流には、込められていることなど、成る程、知らなければ、それで済んでしまうことも、知れば知るほど、奥深いものである。螺旋階段の微妙な傾斜も、何でもCADで計算するのではなくて、人の手で、設計することで、微妙な趣がそこには、現れてくるそうであり、フォルムとか、使い勝手とかいうものは、微妙に、今日の一律的な機能中心の無機質のオフィス・ビルに似たものになってしまうのかも知れない。その意味で、空襲を奇跡的に免れた三田演説館の建物の脇にひっそりと置き去りにされた感じがあるノグチの旧ルーム跡地のフォルムも、こうして、眺めてみると、なかなか、趣があるようである。現役の学生、卒業生も、或いは、一般の人も含めて、観賞に充分堪えうる所蔵美術品、建築学的にも、大変興味深いものである。美術品のみならず、建築様式というものも、詳しく解説されてみると、吹き抜けや、階段にも、様々な趣向が凝らされていることを、設計者の往事の思いが、感じられて、大変、感動してしまうものである。高松の庭園美術館も、訪問してみたいものである。それにしても、藤田嗣治ではないが、イサム・ノグチにしても、日本という国は、世界的な才能を、戦争という特殊な状況を差し引いたとしても、どういう訳か、受け容れがたい風土が、あるのであろうか?桜の花も開花して、旧図書館の写真を思わず、撮影してしまった。

2016年3月30日 (水)

Snow Money Park で考える:

Snow Money Park で考える:

何でも、外国人観光客に、長野県でも人気が一番である『地獄谷野猿公苑』を見たいというAirbnbで宿泊している外国人がいるので、ご相伴ではないが、こんな機会でもないと、Snow Monkeyを見ることはないであろうと、その人気を自分の眼で確かめに、一緒に、車で、行くことにした。高速道路でいえば、長野の先の信州中野ICを降りて、渋温泉経由で、ショートカットしようかと思えば、冬季期間は、通行止めで、結局、上林温泉経由で、駐車場に、車を止めて、そこから、杉の木の生い茂る1.6キロばかりの遊歩道を、結局、30分以上徒歩で、ぬかるんだ泥道を登ることになった。最後の硫黄の臭いがかすかに感じる渓谷の上流には、急峻な石の階段があり、ここを登り切ると、切符売り場で、その先に、野生の猿が入ると謂われている湯治場(?)が、見られるという。成る程、実際に来てみると、とんでもないところである。こんな硫黄の臭いの立ちこめる急峻な渓谷に、野生の猿が食べるような食料はなく、こえでは、かつて、里に下りてきて、害獣になってしまうのが、関の山であろうか?これを見事に、逆手にとって、住民が餌をやりながら、猿の集団を囲い込みに成功する、ここまでは、考えられないことではない。しかしながら、そこから、どのように、観光資源としたのであろうか?アクセツ用の遊歩道と、webカメラによる生中継とか、ICTを駆使した情報の発信やSNSを活用したことなど、ハードとソフトの両面から、プロモーションを施したことが、一挙に、世界を相手に、観光資源として、こんな山の中を、一大世界的な観光地に仕立て上げたのであろうか?日本人でも、恐らく、地元の人などは、多分、ほとんど、対象にはならず、というのも、80%以上が、外国人観光客で、せいぜいが、20%程度で、それも、長野県以外からの所謂県外のナンバーが多いように見受けられた。駐車場の傍には、ちゃっかりと、外国人観光客をターゲットにした、寿司ロールとラーメンを販売するカフェが、オープンしている。しかも、外のメニュー案内は、写真入りの英語で、書かれていた。もうこうなると、ブーメラン効果ではないが、ガイジンに弱い日本人には、ガイジンがよいというのだから、きっと、面白いのはないだろうかと、思って、訪問することになるのかも知れない。まさに、私の場合は、このパターンに該当しようか?パンフレットも、英語語・中国語・タイ語とバラエティーに富んでいて、面白いものである。ここには、まさに、歴史旧跡とは全く異なる、人工的な観光地の海外への売り込みの仕方のノウハウが、隠されているようでいて、実に面白いが、果たして、本当に、これで、カネが、巡り廻って、雇用創出にも、役立っているのであろうか?後、10年もすれば、きっと、泥道も、アスファルト化されて、バリア・フリーに改善されるのであろうか?

 

2016年3月27日 (日)

ザッカーバーグに、中国での勝算は、あるのか?:

ザッカーバーグに、中国での勝算は、あるのか?:

自分自身の個人資産から、中国系の妻とのあいだで、長女が生まれたというので、世界一の寄付金を社会還元に、実施することにしたというニュースを聞いたときには、成る程、この若者は、大したものであると米国内のネチズンのみならず、世界中のフェースブック利用者のほとんどが、その時には、賛同したようである。しかしながら、中国当局のネット規制の網をくぐるかのように、あのPM2.5の濃いいスモッグの中で、紫禁城前を、公然と、ジョギングする写真が、アップされるとは、そして、当局と後日、公然と握手するさまには、その落差に、米国系ネチズンのみならず、一体、この若者は、どんな思惑で、そんな行為を行ったのであろうかと、批判されるのも、理解出来ないわけではない。確かに、天安門事件以降、フランスや欧州へ、逃れた一部の活動家やその支援者達には、まさに、これ以上の裏切りとしか、その目には、見えてこないのかも知れない。香港での出版社の越境拘束や、新聞記者や民主家・弁護士への厳しい拘束や取り調べなど、一連の習金平体制への批判封じの流れが、今、まさに、現在進行形であるにも拘わらず、何故、この若者は、こんな諸行に、突然、打って出たのであろうか?所詮、何処かで、近い将来、その大きなツケが、回されてくることは、間違いないであろう。それを差し引いても、一体、どのような思惑が、あるのであろうか?日本では、既に、若者の中で、フェースブック疲れという一種の社会現象が、見られ始めているのに対して、中年や老人達が、むしろ、増加しつつあると謂われている。今回のザッカーバーグの行動に対して、FBIの情報提供要請に対するアップルのiPhoneのロック解除を断固、拒否するという会社方針は、実に、対照的である。何も、アップルが解除拒否したところで、どうせ、イスラエル辺りのハイテクIT企業が、密かに、ロック解除の技術的な協力を行うことは、実に、見え見えで、初めから、アップルと当局との出来レースであるに違いないことは、明らかである。アップルは、秘守義務を守り、当局は、テロ対策への情報提供という理解を、双方とも、しっかりと、獲得できるわけである。それに対して、ザッカーバーグによる、まるで、ゲッベルスと握手するようなさまは、一体、どのような双方の思惑が、相互利害一致を見たのであろうか?それとも、実は、同床異夢の大いなる闘いの始まりなのであろうか?ここは、感情的にならず、冷静になって、事態の成り行きを見守る必要があるのかも知れない。もっとも、膨大なFBの情報までもが、中国当局の手に入らないという保証は何処にもないが、、、、、。サイバー空間での闘いに、過日、一敗地にまみれた習金平は、オバマにしてやったりというところなのであろうか?それとも、何か、ザッカーバーグには、全く、別の思惑と大いなる次の野望が、あるのであろうか?オバマと事前の打ち合わせは、果たして、なかったのであろうか?依然として、マス・メディアは、紋切り型の分析と報道しか聞こえてこないが、、、、、、、、。

2016年3月26日 (土)

Japan Information というカテゴリーで英文ブログを創る:

Japan Information というカテゴリーで英文ブログを創る:

酒と食事をとりながら、若干、世代の異なる近所の住人達による話の中で、海外からやってくるInboundの人達に、日本のよいところを、ガイド・ブック風ではなくて、文化や歴史、生活、地域社会紹介も含めたそんな英文のブログがあれば、私達でも、コメントを英文で、載せやすいというそんな、無茶ぶりが、酒の程よい酔いに紛れてか、或いは、どさくさに紛れて、出てきたものだから、一同、うち揃って、ペン・ネームまでも、含めて、何人も、候補名があがり、終いには、とある名前に、全会一致(?)で、盛り上がった末に、知らぬ間に、結着してしまった。そんなこんなで、それでは、ボランティアの活動の一端として、人肌脱がざるをえないということで、これまでに、書きためておいた、文化や、外国人観光客に、口頭で、説明してきたような事柄を、記憶を頼りに、簡単な英語で、(難しい表現は、出来ませんので)、したためてみようということにしました。

 

Komoro Diary By Andre というタイトルです。

 

http://nkmrimc.wix.com/komoro-diary-andre

 

Legend of Nunobiki Kanno

SANADA Samurai Battle Field Festival: March 22, 2016

Sushi & Tempura as Original FAST Foods ?! : March 21, 2016

How to enjoy ONSEN, Hot Spa, in Japan ?: March 20, 2016

Enjoy local amateur Kabuki Performance March 19, 2016

Thinking of Japanese ZOUKIN March 16, 2016

 

布引伝説、真田祭りでの火縄銃、寿司・天ぷらの歴史、温泉の効用、愉しみ方、祢津の田舎歌舞伎、日本の雑巾、等…、思いつくままに、、、、、。未だ、完成とは言い難いので、ボチボチ、やっていこうかと考えています。これからは、一人に限定するのではなくて、有志が集まって、藤子不二雄A.B ではありませんんが、複数のアンドレなる人物が、寄稿する方式も宜しいのではないかとも考えています。はてさて、どうなることやるお楽しみです。

御笑覧のうえ、奇特な方には、リンクやシェアーをお願い致します。

爆買いの旅行者は、対象外とさせて戴いておりますので、ご容赦下さい。

 

 

2016年3月25日 (金)

老人よ!惜しみなく、その『無形資産』を若者に与えよ!!:

老人よ!惜しみなく、その『無形資産』を若者に与えよ!!:

先日、武石村の信州せいしゅん村のある会議に、後輩が、フィールド・ワーク実証調査の場が、なかなか、見つからないので、そのきっかけになるようにと、紹介し、一緒に、参加させて戴いた。考えてみれば、若い時には、政治的にも、社会的にも、随分、我々若者は、よい意味でも、悪い意味でも、(もっとも、ちっとも、悪い意味などとは、その時には、全く、考えても、感じてもいなかったというのが、真実であるが、)親も含めて、ご迷惑をお掛けした以上、歳をとってからは、如何ほどのその経験とノウハウと人脈ネットワークなどを、謂わば、『無形資産』という形で、惜しみなく、社会的な還元で、社会的な貢献とは、云いたくはないが、とりわけ、若い人達には、もっと、手を差し伸べる、そういう場が、SNSでも、現実空間でも、必要なのではないかと、最近、ひしひしと、自分の体力の衰えを感じると共に、その感慨が日増しに、強くなってくる。とりわけ、老人体操教室に参加していると、とても、健康的で、気力体力が充実していて、実に、これらの『老人パワー』は、人口構成からしても、(もっとも、いずれは、フェード・アウトしてしまうけれども、)それまでは、女性の活用なども必要であるが、年寄りに、もっと、お金を使って貰い、個人の有する『無形資産』を、惜しみなく、若い人達に、活躍する場を、機会を、創り出して、そこで、一緒に、『歳をとっても、役に立つという悦び』を感じて貰うことが、まさに、地方の創生の根幹であり、人が集い、カネが循環して、新たなノウハウのICTを活用したハイブリッド・進化形が、生まれ出てくるのではないかと、そんな予感がしてならない。都会での若年貧困対策支援の炊き出しも結構であるが、所詮、一過性の対症療法で、根本的に、何か、新しい起業が生まれるわけではなくて、せいぜいが、『貧困ビジネス』程度ではなかろうか?もっとも、そこには、補助金や税金が、うまく、循環しているわけであるから、なかなか、頭のよい起業家がいるものである。ヤクザに、コンサルタントが雇われていたら、まさに、お薦めなのかも知れない。それはさておき、地域に、カネが落とされ、循環して、若い人達が、或いは、外国人が、やってきて、文化を、芸術を、当たり前の、当たり前な生活を、暗闇を愉しみ、樹木を改めて根元から、てっぺんまで、見渡して、その根の張りかを想像してみることも、そういた都会では、公園にゆかなければ、味わえない様な普通の体験に、実は、『無限の価値』が在ることに、私達は、気が付いていないのかも知れない。爆買いなどという一過性の経済効果ではなくて、持続可能性を有する、無限の循環型の、広く、カネも循環し、深く、精神的にも、その地方に棲む人達が、或いは、やってくる人達が、相互に、インターアクティブに、『日常性に潜む何気ない価値』に気が付けるような、『そんな工夫』が、そこには、求められているのではないかと、最近、つとに、思いを強くする。『それは何か』は、これからも、若い人達とともに、一緒に、創り出してゆきたいものである。その意味からも、老人よ、無形資産を、惜しみなく、与よ!と声を大にして、云うだけでなく、ボランティアの行動・奉仕という形で、汗をかきたいものである。(冷や汗では、決して、ありませんよ。) 下流老人などと謂う概念には、こうした『無形資産』が、見逃されていて、残念でなりませんね。そんなに有形資産とフローばかりが、尺度ではないと思います。そうかといって、精神的すぎる、メザシや『清貧』でも、カネは生まれないし、勿論、廻らないし、そんなところには、人は来ませんね。無形資産を、(よい意味で、提供して貰う) 盗み出すには、どんなオレオレ詐欺が、必要なのかを、考えてみる必要性はありそうである。詐欺師に、一度、質問してみるのも、必要かも知れません。

 

2016年3月24日 (木)

官製春闘も腰折れか?:

官製春闘も腰折れか?:

どうやら、潮目が変わってきたのであろうか?何でも、トヨタではないが、為替のレートが、1円でも円高になろうものならば、400億円もの利益が、一日で、吹っ飛んでしまうと云うではないか、流石に、官製春闘の音頭取りも、今年は、原油安と中国市場の先行き不透明さや、マイナス金利の影響なのか、ここへ来て、腰折れの様相を呈し始めてきた。実質賃金の上昇も、これでは、あまり、期待できずに、ズルズルと、消費者心理も冷えてきて、トルクダウンも、全く、一番下のシャンパン・グラスには、こぼれ落ちてこず、一体、シャンパンは、何処に行ってしまったのであろうか?消費マインドも、この先、V字回復ることもなさそうな状況になりつつある。ここへ来て、再度の消費税の延期の議論も、海外の著名な学者先生の意見を聞くという形を演出することで、衆参同時選挙選挙を想定した政治日程へと、すこしづつ、舵取りが、微妙に変わってきたモノである。もうすっかり、ここへ来て、成長戦略とか、三本の矢とかという言葉も、聞かれなくなり、政治的なスキャンダルや、軽率な発言が、目立ち始めてきて、政治も、経済も、潮目が変わりつつあるのであろうか?一強多弱の中で、一体、どのタイミングで、伝家の宝刀は、抜かれるのであろうか?そして、その時の争点とは、はっきりとシメされるのであろうか?それとも、争点隠しやぼかしを図られるのであろうか?

 

2016年3月22日 (火)

ネコノミクスという奴:

ネコノミクスという奴:

別に、自分は、18年余も犬を飼っていたから、イヌ派とか、否、ネコ派だとか、という論争に、荷担するわけではないが、何でも、今や、ペットを飼う時に、猫の飼育頭数の方が、犬を上廻る勢いで、その出版物やペット用品などの関連グッズなどを、含めると、今や、2.3兆円を超える程の経済的な効果をもたらすという試算が、喧伝されている。どのように、数字を計算されているかは、定かではないが、消費者マインドが冷え込んでいて、消費購買動機が、低迷化しているというのに、どうしたわけであろうか?まだまだ、売る側には、消費者のマインド分析なるものが、実は、不足がちであるということの反面的な証左にもなりうるのであろうか?それにしても、イヌとの比較では、トイレの躾が、それ程、必要なく、散歩や運動も、少なくて済むし、ペットフード代や、医療費も、イヌに、較べると、相対的に、安上がりらしいし、『ツンデレ』と謂われるが故に、人間関係(?)も、それ程、べったりせずに、勝手、気儘に、自由奔放に、時に、ツンとしていて、時に、デレっと、すり寄ってくる、そういう関係性が、何とも、ネコ好きの人達には、堪らない、魅力だそうである。何とも、人間社会を、そのまま、投影したような姿で、面白いと言えば、ペットに、『癒やしを求める』という一面も、毎日の現実のストレス社会を、垣間見る思いである。それにしても、いつの時代も、人間さまの都合のよいように、何事も、商品化されてしまい、我が輩は猫である、とばかりに、ほざいたとしても、結局は、人間商品社会という枠内の中でしか、猫も犬も、生けて行けぬ存在なのであろうか?もっとも、それを創り出した人間自身が、そのことに、一番、気が付いていても、素知らぬ顔をしているのかも知れないが、、、、、、、。突然、病気になったり、歳をとって、呆けの介護が始まると、仮想の癒やしの世界から、『命』という尊い現実の世界に引き戻されてしまう。

 

 

2016年3月21日 (月)

日本人、中国研究学者の失踪、再び!:

日本人、中国研究学者の失踪、再び!: 朱 建栄なる人物の失踪も、既に、人々の記憶から、遠くなりつつあるが、2013年、この人物も、所謂、中国による対日本への宣伝工作員として、マスメディアにも、結構露出していたにも拘わらず、突然、二重スパイとしての嫌疑(?)をかけられて、中国出張中に、失踪し、帰国後は、それっきり、マスコミには、露出することがなくなった。一体、この事件の真相は、実際、どういうことだったのであろうか?一向に、マスコミからは、中国を意識しすぎてか、どうかは、分からぬが、闇の又、闇である。あれから、香港の出版業者やら、不正腐敗を暴く国内の出版業者や、民主・人権活動家、弁護士などを、次々に、越境検挙し、その習金平への批判封じを、徹底的に、推し進めたり、外国人に対する反スパイ法を強化したりと、人権・出版報道の自由への圧力を強めている矢先に、今度は、法政大学の趙 宏偉教授が、北京出張中に、失踪したそうである。明らかに、この背景には、一連の流れが、底流としてあることは、間違いのないところであり、日本は、断固として、自国民の海外での安全・保護という観点から、徹底的に、調査・抗議すべきであろう。その理由と現状報告を、明らかに、すべきであろうことは、当然であろう。本当に、こんなことをする国が、相互・互恵的な共通の価値観を有するに値する隣国なのであろうか?何故、こういう経緯に至ったのかを、はっきりと、公表されて然るべきであろうと思われる。北朝鮮による日本人拉致という過去の自国民に対する基本的人権を守りきれなかった日本という国は、一体、海外での日本人をどのように、平時でも、守り切れるのであろうか?その政治的な力量が問われかねない。何とも、不可解な失踪事件であろう。双方の政府から、何も、聞こえてこないのが、実に、気持ちの悪い話である。

2016年3月20日 (日)

偽名と芸名と源氏名とビジネス・ネームとゴースト・ライター:

偽名と芸名と源氏名とビジネス・ネームとゴースト・ライター:

こうなってくると、今や、何が何やら、さっぱり分からなくなってしまう。相手の名前を聞いたときに、本当に、その名前は、体を表しているのでしょうかと、思わず、聞きたくなってしまう。ショーン・マクアード・川上なる人物が、何でも、経歴詐称とかで、問題になっている。『詐称』自体が、問題であることは、誰しもが、認めることにしたら、それ以外には、一体、何が、本質的なところで、問題なのであろうか?考えてみれば、ペン・ネームというものも、決して、詐称ではなかろう、そのように考えてみれば、日本社会というものは、名前に関しては、なかなか、肝要であるとも云えなくはないだろうか?源氏名などというものは、その最たるものなのかもしれない。問題は、それを語るところの、詐称とは云わないまでも、語る主体の内容であろう。ショーン・Kたる人物が、そのものいいで、或いは、その著作で、講演などで、コメントする内容が、刮目すべきものであれば、決して、これ程までに、バッシングは、受けなかったのかも知れない。逆説的に謂えば、日本という社会は、ある種の権威主義とか、肩書きとかを、源氏名とは別に、重んじる社会なのかも知れない。その意味で、こうした、ある種の許容範囲での『二重性』が、様々な分野で、垣間見れて、実に、面白い。例の難聴の作曲家騒動も、既に、忘れがちであるものの、ペン・ネームも、海外逆輸入の俳優の名前も、ゴースト・作曲家も、今回のビジネス・ネームも、みんな、そんな『仮面の二重性』を、有している社会構造なのかも知れない。今や、サラリーマンも、大きな組織に属していながら、別の肩書きや、別名で、活躍出来る社会であっても、宜しいのではないだろうか?問題は、それを使用するところの主体の意図的な詐称かどうか、ではあろうが、、、、、、。仮に、凄い結果を残していたら、一体、世間は、許したのであろうか?もう一度、自分の名前を考え直すよい機会かも知れない、そして、自分とは、一体、何ものなのかとをも、、、、、、、。

 

2016年3月19日 (土)

ミニマリストに考える:

ミニマリストに考える:

その昔、どこかのブランドに、シンプル・ライフなるものが、有ったことを記憶しているが、ミニマリストなる言葉が、最近、聞かれるので、偶然、想い出した。一体、シンプルという意味と、最低限という意味でのミニマムという意味は、どのように違うのであろうか?ものの整理が、日本でも、アメリカでも、心の中で、ときめいたものとときめかないものをひとつの基準として、判断材料として、設定して、捨てるか、捨てないかを、決めると云うが、その意味では、生き方としては、そんなに、シンプルとか、ミニマムとかという言葉で、語られるのであろうか?そう言えば、断・捨・離などというものを如何に処分するかは、可能であろうが、統一的なデザインのシンプルな家具とか、確かに、ものを揃えたり、処分したりは、可能であろうが、心の在り方とか、生き方を、どのように、こうしたコンセプトのもとで、語ろうとしているのであろうか?時代というものは、面白いモノで、バブル期には、間違いなく、こんなミニマリストなる言葉は、受け容れられなかったことであろう、やはり、24時間戦えるだけのエネルギッシュな、大きいものは良いものだ!的な心の有り様が、必要だったのかも知れないし、バブルがはじけると、途端に、清貧の心を、メザシを食べるとかということになるのであろうか?そうした意味合いからすれば、ものの整理も処分方法も、断・捨・離も、或いは、ミニマリストと言う言葉も、所詮は、そういう時代背景を反映したものなのであろうか?それにしても、余りにスッキリ、し過ぎていると、何か、落ち着かないのは、どうしたものだろうか?困ったものである。

 

2016年3月18日 (金)

電子版お薬手帳プラスを試す:

電子版お薬手帳プラスを試す:

30余年の長きに亘って、通っていたホーム・ドクターが、高齢のために、昨年の冬に、突然、亡くなってしまったので、改めて、新しいホーム・ドクターを捜して、月に一度、薬を処方して貰うことにしたが、処方箋薬局も、生き残りを懸けて、どうやら、顧客の囲い込みに、忙しい。何でも、固定客を増やせ増やすほど、医療報酬料にも、影響が及ぶとかで、こういうアプリを利用させることで、きっと、効果があるのであろう。薬を貰うまでの空き時間に、無料アプリとして、二次元バーコードの形で、お薬手帳の電子手帳版という広告があったので、早速、年寄りの新しもの好きで、試してみることにした。成る程、薬局を選択して、登録して、基本的な情報を、お薬手帳に、記載されている内容を含めて、アレルギー情報とか、薬の名前などを、登録すると、自動的に、処方された薬の内容が、電子的に、反映されるものである。更には、血液検査の明細とか、血圧、歩数などの記録を、データとして、記録できるし、自分だけではなくて、家族のデータまでもが、記録される。これまで、パソコンには、過去の健康診断のデータなどを入力しているものの、スマホのこのアプリに、同期できれば、なかなか、便利である。しかも、どんな薬を飲んでいるかとか、血圧のデータとか、様々なデータが、ICチップ同様、データ・ベース化可能である。しかも、処方箋を貰ったら、これを写真撮影して、メールで、登録した処方箋薬局に、送附すると、折り返し、準備ができ次第、10分ほどで、登録したメルアドに、準備出来上がりの連絡が来るから、薬局で、待っている必要も無い。実際に、これを試してみたところ、その通りに、待たずに薬を受け取ることが出来た。これで、実証試験も終了したことになる。無論、個人の健康情報が、薬局側へ、データ・ベース共有化されてしまうから、個人情報の漏洩リスクは免れない恐れは、否定できないこともないが、、、、、、。それでも、未だに、ICチップで、病歴の記録はされていないから、ある種、それまでの繋ぎには、なるのかも知れない。なかなか、便利な無料アプリである。レシートを撮影して、自動インプットできる家計簿のアプリよりは、ずっと、使い勝手が宜しいように思われる。処方された薬が、準備出来ていれば、翌日でも取りに行けるから、忙しいサラリーマンには、なかなか、便利であろう。地方などの遠隔診断などともに、もっと、活用されて然るべきソフトなのかも知れないが、使われなければ全く意味がないのも、事実であろうか。ご興味のおありの方は、試してみることをお薦めしたいものである。年寄りには、面白いおもちゃなのかも知れないが、、、、、、。

 

2016年3月17日 (木)

俳優の芸名に於ける匿名性:

俳優の芸名に於ける匿名性:

もう昔、若い頃に、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』という本を読んでいたとき、後に、この著者が、実は、山本七平なる日本人であることを知らされて、驚いたことがある。勝手に、こちら側は、著者が、ユダヤ人のイザヤ・ベンダサンであると、考えてしまったものである。考えれば、芸名などは、俳優を含めても、実際、最近では、名は体を表さずに、イメージが、先行していて、パリーパミュパミュなどは、本名の日本人の高校生の名前を云われても、さっぱり、その顔とコスチュームとが、一致しないものである。成る程、テレビで、人気が出たディーン・フジオカなる俳優も、実は、日本人で、福島出身であるそうであり、しかも、独身かと思っていたら、既に、奥さんも双子の赤ん坊がいるらしいとは、驚きである。もっとも、この驚きとは、本人には、別に驚きでも何でも無いのであろうが、勝手に、受け手の方は、想像を巡らして、人物のイメージを作ってしまいがちである。その意味からすれば、名は体を表さなければ、匿名性というものは、逆に、その神秘性を俳優にとっては、実力以上の何か貴重な高付加価値をつけるような物なのかも知れない。広東語や北京語や英語を、操って、東南アジアを、股に掛けて、活躍する日本人というものも、逆輸入俳優や横文字の名前に、極めて、弱い日本人には、ピッタリなのかも知れない。そう考えると、バンドや俳優も、何も、少子化が進み、縮みゆく日本市場だけを対象にすることなく、一度、外国で、売り込んで、逆輸入してくる逆戦略をとることも、マーケティングには、必要なのかも知れない。Dean Fujiokaも、初めから、藤岡竜雄という本名であったら、今日ほど、露出が少なく、評価されていなかったかも知れないと思うと、面白いではないだろうか?

 

2016年3月16日 (水)

日本の雑巾に思う:

日本の雑巾に思う:

何でも、『雑巾を縫いませんか!』というお誘いのメールを戴いた。実に、雑巾を縫うなどと云うことは、子供の頃、小学校の家庭科の授業以外には、とんと、雑巾などは、縫った試しは記憶にない。一体全体、日本の雑巾には、どんな意味があるのであろうか?そもそも、人生は、或いは、年寄りの生き方なるものは、雑巾に喩えられるように、ボロボロの人生とか、ボロ雑巾の様に、使い捨てられるというサラリーマンの悲哀のようなものを、そこには、感じざるをえないのは、実に、悲しいことである。もっとも、真新しい白いタオルも、何度も、何年も、使用されていく間に、変色もし、肌触りも、ざらざらになってしまい、或日、突然、ポイとゴミ箱に捨てられる運命にあるのであろうか?それを考えると、雑巾を縫うと云う事は、ある種のリボーン、再生なのかも知れない。そのように考えると、何とはなしに、気が軽くなるようにも思えてならない。日本人の有する雑巾に対する思いやりとは、そんな何ものなのかも知れない、ゴルフ場でのマナーのひとつに、洗面所に、何気なしに、おかれている雑巾は、次の人が、気持ちよく、使用できるように、自分が使用した後には、必ず、したたり落ちた水をそれでえ、ぬぐい取り、綺麗にしておくために、使用されるのが、ゴルファーのマナーであると云われているが、そうした、何気ない気配りや思いやりというモノが、実は、単なるすり切れたボロボロのタオルも、リボーンに結びつくことになるのかも知れない。そう考えると、日本の雑巾を縫うという行為も、何か、深い意味がそこには、有るのかもしれないと、考えると、面白いかも知れない。今回は、残念乍ら、参加できなかったが、日向ぼっこでもしながら、雑巾縫いという裁縫をするのも、面白いことかも知れない。そんな経験も、海外の旅行者には、パッチワークとは違った楽しみかも知れない。

 

2016年3月13日 (日)

オープン・データ作成の小椋佳型分業:

オープン・データ作成の小椋佳型分業:

名古屋大学の遠藤守准教授から、以前提唱した、ウィキペヂアでのオープンデータへの活用に関して、何でも、『ローカル・ウィキ』なるものがあるので、作ってみては如何かと、FB上で、知らせが届いた。成る程、こちらならば、素人には、ハードルは、低いかもしれない。それでも、自分の様な素人には、やはり、どうしても、小椋佳型の分業をやって貰いたいものである。つまり、小椋佳は、作詞家であり、作曲家でもあり、又、シンガーソンガーでもあるものの、作譜が、譜面に、メロディーを起こすことが出来なくて、テープに歌を吹き込んで、これを専門家が、作譜にしたり、編曲したり、演奏に耐えうるモノにしたらしい。まぁ、本人が言うのであるから、そうなのであろう。換言すれば、オープンデータかに関しても、私は、この分業論、役割分業論を採用したいと考えている。ニーズやシーズやウォンツを、誰かが、公開し、これを専門家が、オープンデータ化したり、別の専門家が、アプリに落とし込んでもよい。別に、著作権とか、知的所有権は、どうでも宜しい、むしろ、これにより、地域が活性化されたり、人々が、便利と思い、ユーザーが、無料で、使って貰えれば、地域に、お金が落ちて、雇用が生まれれれば、結構な話ではないだろうか?既に、様々な個々のデータが、地方公共団体や、地域には、点在しているものの、それを、指揮者のように、活用されているとは、現状、程遠いものである。既に、観光などのアプリで、歩き乍ら、GPSを活用して、写真を撮るベスト・ビュー・ポイントに近づくと、パキンと携帯が鳴って、昔、有名な画家が、描いた絵の地点を教えてくれたり、俳句の句の記念碑が説明と共に、出てきたりと、或いは、トレイルのルート案内とか、歴史的な古戦場や、武将のお墓とか、要するに、いくらでも、欲しい情報が、あるにも、関わらず、歩きながら、その地点で、ガイド本を開いて、確認出来るようなそんなサービスが、このオープン・データのなかで、試行錯誤してみたいものである。更には、これを英語に翻訳して、インバウンド向けに提供したり、AirbnbYouTubeにリンクさせて、HP上に、掲載できれば、もっともっと、地方からの情報発信が可能ではないだろうか?早速、御牧ヶ原の植物や蝶の生態系保護も含めて、春夏秋冬に応じたオープンデータ化を、このローカル・ウィキを活用して、専門家と協力して、やってみることにしよう。特に、官に頼る必要性も全くない。

 

2016年3月11日 (金)

白タク反対の鉢巻きとウーバーに思う:

白タク反対の鉢巻きとウーバーに思う:

一体全体、タクシー業界の何人が、タクシー・ドライバーという職種自体が、近い将来、消え失せてしまうかも知れない可能性が高いと予想されていることを、どれ程、危機意識を有して、自覚しているのであろうか?昔、ゴルフ場で、やはり、キャディーさんがいないとゴルフにならないよねぇなどとのたまっていたのに、今や、電動カートや、自動GPS機能で、コントロールされたゴルフ・カートに、ピンまでの距離や高低差までも、更には、グリーンのアンジュレーションまでも、教えて貰いながらプーするのが、当たり前になってしまった昨今である。況んや、過疎地でのタクシーをやではなかろうか?何を今更、白タクであろうか?そもそも、そんな白ナンバーのタクシーという言葉すら、最近の若い人は、知らないのではないだろうか?乗客の安全性とか、事故の補償とかの問題が、解決されなければならないのは、至極当然のことながら、何を今更、『ライド・シェアー』に、白タク反対などという鉢巻きとスローガンで、反対して、何になるのであろうか?全く、頭の中で、農協に頼り切ってひたすら、米の自由化・輸入化、絶対反対などと、あの臭いタイ米の事件も、とうの昔に、忘れ去ってしまいながら、TPPにも、断固・絶対反対などと、声高に、ひたすら、反対と唱えている類いとちっとも、その精神構造が変わらないようである。バブルの頃には、タクシーを呼ぶコール・センターも、話し中ばかりで、結局、電話が繋がるまで、もう一軒、上司と梯子をする羽目になったことをなつかしく、想い起こされる。もうあんな時代錯誤の時代は、きっと、訪れることはなかろう。地方都市から、今や、公共交通の脚が、消え去ろうとしているときに、ディマンド・タクシーの前に、乗り合いタクシーのサービスを提供するとかいうので、登録にわざわざ、出向いていったら、何と、登録家族だけの利用で、友人や親戚の利用は出来ないという、何とも、可笑しな驚くべき制度である。間違いなく、Airbnb Uber ウーバー、Lyftリフト、などのこれまでの法制度の隙間を突いてくるような新しい業態が、どんどん台頭してくるであろうし、On demand 配車型やCost Share 型や、Rideshare型などの様々なシーンとニーズの形態に応じた新手のサービスが、間違いなく、台頭をしてくるであろう。タクシー経営者と運転手とが、珍しく、一緒になって、労使双方とも、反対するという相互の利害が一致するさまなのであろうか?もっとも、その場には、ちっとも、『利用者の顔』が見えないのが、摩訶不思議である。今日も、駅前の日帰り温泉施設の帰りには、1530分に1本のローカル線の電車の客を待ち受けるタクシーが、数台、所在なげに、とまっているというこのエネルギー・人的ロスと時間の無駄はどうなるのであろうか?

 

2016年3月10日 (木)

『指導死』という言葉:

『指導死』という言葉:

随分と、今の世の中、次々と、聞き慣れない新しい言葉が、生まれてくるものである。既に、一つの言葉が、世の中で、ある種の共通認識の中で、既に、流通して始めていると謂うことは、そのこと自体が、ある種の意味合いからすれば、現状、既成事実化しつつあると云うことにもなるのであろう。こんな言葉が、存在するとは、全く、驚きである。進学をする上での教師と生徒間での指導で、所謂、冤罪的な誤った指導のために、中学生が自らの命を絶ってしまったという。一体、15歳の中学生の心の中に、どんな不安や、人家ウヲも否定されるようなことが、更に云えば、自ら、命を絶つような何かが、何故、生じて、何故、両親も、教師も含めて、防ぎきれなかったかと思いを巡らせると、本当に、胸が痛くなってしまう。少子化も糞も、ないではないか?単なるコンピューター上でのインプットミスとか、ダブルチェック・システムという制度上の問題ではなく、そもそも、教師の側にも、或いは、その生徒の側にも、一体、『命の教育』など、どれ程の効果があったのであろうか?それにしても、こんな『指導死』などという言葉が、当たり前に、語られることや、報道されることに、空恐ろしさを禁じ得ない。入学試験や、就職試験とか、いずれにせよ、3月から45月にかけては、新しい環境や人生の選択に直面して、誰しもが、精神的に、慣れない環境へと、否応なく、無理強いされてしまいがちである。それでも、『人生、そんなに、死を選ぶほどのことでも無い、断固、一緒に、冤罪を晴らすために、君の名誉のために、戦おうではないか!』と、エールを送る大人が、本当に、この少年の周囲には、誰一人として、いなかったのであろうか?フーテンの寅さんみたいな人が、いなかったのであろうか?何か、『生き抜く逞しい力』というようなモノの欠如を感じざるをえないのは、おおいに、残念なことである。或いは、そうしたものを、育て上げることを助けるような力が、不足しているのかも知れません。何か、システムの根幹に宿るべきある種の『根源的な精神』のようなものが、既に、融解しているように感じられてなりませんネ。『指導』と言う言葉には、柔道の審判ではないが、如何にも、第三者然といていて、主体と客体が、全く、まるで、上下関係のように、或いは、指導・被指導の関係のように、もっといえば、師弟関係の様な様相を呈し始めていているように、感じられてならないが、、、、、、、如何なものであろうか?そんなもので、テメェの人生を決定されてしまってはたまったものではないし、自死を選ぶことで、諫死には、全くならないこと、名誉が保たれることがないことを、何故、考え及ばなかったのであろうか?

 

2016年3月 9日 (水)

新手の詐欺メールが来ておもう!:

新手の詐欺メールが来ておもう!:

どんなに、コンピューター・ウィルス・スキャン・ソフトや、プロバイダーによる二重・三重による防御をしていても、敵も然る者で、これらをかいくぐって、久しぶりに、ZIP解凍ファイル形式で、送金確認の旨の内容で、見知らぬ送信者の名前で、しかも、電子署名付きで、なかなか、手の込んだ方法で、新手の詐欺メールが、送られてきた。無論、送金履歴などは、ないので、即座に、削除したが、スマホと同期していると、うっかり、クリックしてしまいかねない。全く、油断も隙もあったモノではない。一般的なウェッブ上での商取引でもしていたら、緊急・重要など、クレームとか、支払い実行しました式の添付ファイルにでも、ウィルスを忍ばされていたら、ひとたまりもなかろうか?最近では、ネット広告を、みただけでも、或いは、ダブルクリックしただけでも、ウィルス感染してしまうなどと言う物騒な警告が、セキューリティー・ニュースで、案内されてきた。もはや、こうなると、モグラ叩きに等しい状況で、こちら側も、敵の動きを少しでも、その行動パターンを知っておく必要に迫られる。拡張子や、発信プロバイダーや、国名なども、きちんと、チェックしておかなければ、迂闊には、添付ファイルも開けないものである。最近では、.club とか、.org とか、どんどん、新しいドメインが出てきて、気が抜けない。子供達などへのネット教育現場なども、どうしているのであろうか?もっとも、私のような実務の中でしか、自己流で、学んできた老人達のネット・セキューリティー防衛は、まるで、オレオレ詐欺ではないが、誰が、一体、再教育も含めて、守ってくれるのであろうか?こんなニッチのマーケットに、誰も、目を向けてくれないのか?私が、詐欺師ならば、間違いなく、この市場は、有望な市場であると思うが、、、、、、、、。自動送信装置の発展のためか、深夜、0029になると、迷惑メールが、そう言えば、毎日、来ていたが、セキューリティーを強化したら、来なくなったが、来なければ、来ないで、何か、こちらの危機意識も、弛緩してしまいそうで、逆に、セキューリティー強化のための教育サービスをネット上で、行うことも、結構、大きなビジネス・チャンスではないだろうかとも、素人には、思えるが、要するに、セキューリティー・チェック・サービスとか、再教育システムの提供である。誰か、考えては貰えないだろうか?官公庁や企業だけで、手一杯なのであろうか?

 

 

2016年3月 8日 (火)

なでしこにみる成果主義のツケ:

なでしこにみる成果主義のツケ:

レジェンドも、結構なことであるが、個人競技とはことなり、団体競技の場合には、後進にそのポジションを与えてあげて、自分は、その経験とノウハウを生かして、指導者への途を歩んでもらいたいモノであると、勝手に、素人は考えがちであるが、自分の力で、下克上さながら、奪いとるのが、この世界の掟であると云えば、そうであるとも、思えないこともないが、、、、、、、。それにしても、なでしこのサッカーというのは、これまでは、男子のサッカーに較べて、安心して、みられたものであるが、ここのところ、少し、陰りが出てきたかなとも思いがちであったが、案の定、余りの急ぎすぎた成果主義と経験重視、安全パイでのベテラン重視で、結局、世代交代が、うまく、ゆかずに、リオ五輪への出場権を逃す結果になってしまったのは、残念なことである。期待していなかった男子の方が、逆に、出場するとは、、、、、、、何とも、皮肉なことである。勝てば、官軍で、佐々木監督も、ぼろくそに言われて、手倉森監督の評価が、圧倒的に、上がってしまったことは、結果の世界だから、仕方の無いことなのかも知れない。それにしても、性急な期待その成功体験の維持の為に、成果主義を徹底的に、突き詰めてくると、結局、どこかで、こういう結果を招きかねないことは、監督のみならず、誰しもが、うすうす、感じていたことであろうことは間違いないであろう。それならば、もっと、プロの解説者は、嫌われても、リオ五輪のためには、澤が出場しなければ、勝てないと、断言すべきであったのかも知れない。又、逆に、自身の引退の花道を、後進の若手に、チャンスをわざわざ、与えた澤の温情は、誠に、美談にはなっても、もっと、レジェンド足る所以のエゴを出させても良かったのかも知れない。四半期毎の成果主義は、結局、行き着くところ、フランスのワールドカップ優勝後での凋落同様、どこかで、常に、常勝巨人軍なるものが、難しいのと同様、その時、ババを掴まされた監督こそ、或いは、選手こそ、お気の毒と云うほかないのかも知れない。女子サッカー界のためには、今後、ベテランや海外経験を積んだ選手達が、草の根から、底上げのために、今後、どんな受け皿で、どのような指導者になり、若い選手を一流選手に育ててゆけるかに関わってくるのかも知れないが、今後が、たのしみである。それにしても、基本的なパス回しとか、意思の疎通とか、一寸したことのミスから、勝てなくなるものであることは、まるで、経済や、人生の一端を垣間見るようである。もはや、スポーツ観戦とは、別の次元で、90分を視てしまうのは、どうしたものであろうか?観る側でよかった。やっている選手達も、監督・スタッフ達は、大変なことであろう。

2016年3月 7日 (月)

夫婦共稼ぎが、半分なのか!:

夫婦共稼ぎが、半分なのか!:

自分も、結婚した頃は、奥さんの資格を生かして、継続して、子供達が、5歳ころになるまで、共稼ぎで、働いたものである。もっとも、その頃は、まだ、待機児童の問題が、それ程、深刻ではなかったものの、それでも、第二子を出産して、職場に復帰するときには、無認可の保育所に一時的に、預けたことを想い起こす。別に、生活が苦しくて、働いた訳でもなく、考えてみれば、随分と、今の時代に比べて、恵まれていたのかもし得ない。しかも、急病などで、預けられない時には、母が、面倒をみてくれていたりと、バックアップ体制も問題なかったことを考えると、今日の保育や育児の夫婦協働は、随分と、大変なことが窺える。時代の要請も、或いは、女性の社会進出も、それぞれの制度の拡充が、伴わないと、大変なことであろう。更には、生活資金の捻出のために、どうしても、夫婦で、共稼ぎをしないと、家賃も支払えないとなると、別の問題でもあろうか、昔は、アメリカから、DINKSなどという結構なコンセプトが紹介されて、子供がいなくて、夫婦二人で、ダブル・インカムで、自由気儘に、暮らせることが、あたかも、夫婦の理想のような言い方がされた時代もあったが、一体、あの頃のDINKS達は、今、どうしているのであろうか?依然として、バリバリで、社会の第一線で、稼ぎまくっているのであろうか?それとも、リーマン・ショックで、没落でもしてしまったのであろうか?女性が社会進出して、その能力を発揮できる場所と機会が、与えられることは、決して、悪いことではなく、むしろ、これからの少子化の中で、必要であろうことは、間違いことであろうが、男性の方の給料や実質賃金が上がることなく、むしろ、低下して、この家計を補うために、共働きということになると、一寸、本筋とは違うかなと、首を捻りたくなる。DINKSだけでなくて、同じく、昔のMISSYなる存在も、今や、どうなっているのであろうか?こちらは、『お一人様』などと、おだてられて、快適な一人暮らしを、続けているのであろうか?もうこれらの人々も、既に、いい歳なっているはずである。まさか、下流老人予備軍にでも、属しているのではなかろうか?共働きが、半分以上になる社会とは、どんな社会なのであろうか?考えてみれば、『共稼ぎ』と言う表現も、いかにも、古くさい、カネに固執したような感じがしなくもなく、『共働き』という方が、時代に適合したコンセプトを理解した、如何にも、垢抜けした表現なのかもしないと思わざることも無い。そうおもうと、時代時代の英語での表現も、今にして思うと、なかなか、興味深いものがある。一寸、そんなことを思いだした。

 

 

2016年3月 6日 (日)

おからポテトサラダを作る:

おからポテトサラダを作る:

男の料理も、随分と、間が空いてしまった。実に、久しぶりである。何でも、ロー・ファットで、低カロリーで、しかも、手頃な値段で、食物繊維が豊富で、確かに、大豆の絞りかすだから、そうなのかも知れないが、おまけに、食材の増量にもなると謂うことで、取りあえず、間違いなく、確実に、簡単なレシピーで、まずは、ポテト・サラダを作ってみることにした。ツナ缶を使用すれば、間違いなく、普段食べている普通のポテト・サラダと変わらない出来映えである。これならば、この応用問題として、延長線上に、コロッケも、簡単に作れそうである。おからを使って、次は、おからハンバーグでも作ることにしてみよう。こちらは、洋風でも、和風でも、どちらにでも、レシピーを若干変更してゆけば、それなりに、保存食にもなるし、なかなか、面白い食材であろう。一挙に、おからを使用した料理のレパートリーが、充実しそうである。想像していた以上に、簡便で、しかも、味も、失敗はなさそうである。便秘にも、効くこと間違いなしとなれば、更に尚、良しであろうか?

 

2016年3月 5日 (土)

トランプ外しの矛盾:

トランプ外しの矛盾:

米国大統領予備選挙の様相も、なかなか、興味深いものになってきた。スーパーチューズデイ以降、民主党では、本命と称されるヒラリー・クリントンが、どうやら、若者や学生層の支援に支えられたサンダースの主張を、徐々に、取り入れることによって、少しずつ、じわじわとその差を広げ始めてきた。それにしても、共和党の方は、既存の所謂政治経験のある共和党の政治家に対して、とりわけ、ブッシュに対する、その既存のプロ政治家故への反抗的な理由と絶望から、全く、その枠外である素人に等しい候補の最たるものとしてのトランプへの期待が、実際、勢いづいて来てしまった。ここへ来て、流石の共和党の重鎮達も焦りを隠せずに、とうとう、反トランプの陣営構築に動き出してきたものの、そもそも、基盤が全く、異なるところから、でてきている以上、謂わば、タコが自らの脚を食べてしまうような結果に、ならないとは、保証の限りではない。むしろ、自分たちの、声なき声を吸い取れなかった、或いは、吸い上げる仕組みを構築できなった、更には、それらの包括的な理由を、蔑ろにして、只単に、トランプ憎しでは、本当に、大丈夫なのであろうか?これは、まるで、一興多弱の何処かの国の雇うが、安倍憎しとばかりに、出戻り同士の新党結成に伴う党名を公募する構図と、何処なしら、似ていなくもないようで有る。考えてみれば、政治が、変革されるときには、何らかの形で、素人が、或いは、場違いの異分野から、出てくることも、まんざら、歴史の中では、珍しいことではない。その意味からすると、こうした背景の声が、果たして、ホンネに近い形の声を、どのように、政策に、生かされて行くのであろうか?

 

2016年3月 4日 (金)

経営のスピード感というもの?:

経営のスピード感というもの?:

ハイアールも、鴻海も、考えてみれば、前者が、サンヨー、後者が、シャープという日本人技術者が、大量に、週休移転されて、働いていることになるのであろうが、何でも、決定的な日本的な経営との差は、そのスピード感のある決定力だそうである。しかしながら、考えてみれば、そんなことは、別に今に始まったことではないであろうが、今更ながら、そんなことを論じられるとは、全く情けないことである。松下幸之助も、再三に渡る人生での逆境の時にも、大胆な決断と決定を、独自に、スピード感を以て、実行したものであることを想い起こされる。昔、日本の家電が競って、ヨーロッパやアメリカから、技術ライセンスを導入したときには、当時の技術者は、一体、どんな思いで、今、何をしているのであろうか?とうの昔に、別の業界へでも転職してしまっているのであろうか?それとも、もう、定年で、リアイヤーしてしまっているのであろうか?何とも、情けない状況である。何でも、一説によれば、家電業界では、日本の家電という現在の立ちどころは、既に、局地戦ですら、まともに、戦えないのが、現状であるそうで、日の丸〇〇などという言葉すら、今や、空虚なものになりつつある。PCも、ディスプレイも、家電も、半導体ですら、今や、V字回復の可能性は、ほとんどないのであろうことは、誠に、残念なおもいがしてならない。

2016年3月 3日 (木)

自動運転の必要性を改めて感じる:

自動運転の必要性を改めて感じる:

歳をとってから、運転免許の返納が問題になっているが、何でも、運転に自信のある人ほどが、そういう傾向が強いらしい。もっとも、一頃の危険ドラッグによる事件は、減少傾向があるものの、長距離バスの事故や、突然の予期せぬ病気の発症によって、突発的に生じる死亡事故などを考えると、まんざら、自動停止装置とか、その延長線上での自動運転とか、居眠り防止装置とか、様々な安全運転補助の装置が、開発されることも、決して、悪いことではないのかも知れない。公道でのロボ自動運転のタクシー実証実験とか、それなりに、価値のある第一歩になるのかも知れない。そう考えてくると、自動運転という技術も、決して、夢の技術とは、言い切れない様な現実が、いよいよ、近づきつつあるのかもしれない。とりわけ、高齢者や認知症による高速道路上での逆走の事前防止とか、危険運転の可能性の予防装置の導入・提供なども、近い将来には、必ず、実現可能になってくるであろう。一挙にとは行かないまでも、すこしづつ、一歩一歩、装置の改善と、進化が、みられればそれに超したことはないであろう。自動運転は、危ないなどとタカをくくっていると、いつの間にか、技術の進化により、立場が、逆転してしまうかも知れない。その意味では、改めて、自動運転・安全運転補助システムの一層の発展と導入が、産業の総合的な成長・発展も含めて、やはり、必要なのかも知れない。そう考えると、車離れというものも、必ずしも、考えようによっては、まだまだ、成長する分野が残っているように思えるが、、、、、、、。そんな風に、自分自身の考え方が、すこしづつ、変わってきたようである。

2016年3月 2日 (水)

経済評論家と学者とは、両立するのか?:

経済評論家と学者とは、両立するのか?:

60年代の後半に、学者の虚妄が、これでもかと、暴かれ、ガッカリさせられたことを想い起こすが、経済理論を、大学で、講義している学者の中には、世間的に、その著作の中でも、その主張が、正論で、的を射ていれば、それなりに、評価はできようが、概して、これまでの経験から言わせて貰えれば、だいたいが、評論は出来ても、せいぜいが、過去の現状分析にとどまり、その範囲から、ある種の将来への経済理論学的な見通しと展望、更には、政策の提言などに到るものは、ほぼ、皆無であると謂っても良さそうである。何気なく、新聞の下半分の本の宣伝広告をみていると、嘗て、何冊か、その著作を読んだことのある女性経済学者、或いは、経済評論家と称される人物の著作が、眼にとまったが、間違いなく、そのタイトルは、時流に乗った今風のタイトルで有り、だいたい、何が、論じられているかが容易に、想像出来うるようなものである。要するに、この種の著作は、単に、時流の成り行きで、どうとでも、面白、可笑しく、評論し、或いは、時に、絶望的な悲観論を述べておくことで、真っ先に、そういう事態に陥らなければ、オッケーと言う具合に、安全パイの範囲以外の何ものでもない。まるで、株価や為替相場が、全く、予測不可能で、当たらないのと同じように、常に、若干、一呼吸遅れた頃になって、実は、こうこうだったのであると、まるで、みてきたことのように、評論するのであって、そこから、決して、何かの画期的な新たな経済理論を、抽出できうるような代物でもない。しかしながら、考えてみれば、この種の著作は、ハウ・ツーもの同様に、一定の読者には、現状の追認と現状分析とある種の心の安らぎを与えるものであって、決して、将来への示唆を含むモノでは決してないものである。確かに、それ以上でも、それ以下でもないのかも知れない。何とも、不可思議な著作である。誰か、牙を剥いて、かみつく勇気のある評論家は、いないのであろうか?それとも、この出版業界という世界自体が、そもそも、出版不況の中で、この種の争いをすることで、一斉に、お互いに、地盤沈下しないための『大人の対応』と、生き残りのための最善の策と決めつけているのであろうか?なかなか、興味深い世界でもある。

 

2016年3月 1日 (火)

アラブの春とは何だったのか?:

アラブの春とは何だったのか?:

5年前のこの一連の運動というものは、一体、何だったのであろうか?チュニジアに始まった一連のアラブ諸国での民主化運動とは、どういう意味合いで、どういう運動の展開が、予期されていたのであろうか? 5年後の今日、リビアでの出来事、エジプトでの出来事、更には、シリアにおけるISを含めた様々な複雑な抗争と、代理戦争の様相は、単なる大国の一種の民主化という理想への奢りと、具体的な石油利権、或いは、イラク戦争の戦後処理の仕方、アラブ諸国に於けるモスリム同士のシーア派・スンニ派との血で血を洗う対立抗争と、イラン・サウジという両国での覇権争い、アラブの大義をかけた争いに、ロシア・米国の大国の思惑も絡み、複雑な様相を呈しているというのが、実態であろうか?60年代の後半の世界的な学生運動の高まりの中で、一部の分析では、CIAによる世界的な陰謀説や政治工作が、公然と論じられたことがあったが、実際、今日、イスラム世界で、現在進行形で進行している出来事の要因は、一体、何処から、派生してきたのであろうか?米国は、戦後処理で、とりわけ、日本に於ける占領政策の成功(?)は、逆に、今日の中東政策のそれと、何処が、大きく、異なっていたのであろうか?冷戦の進行が、逆に、日本の統治を、手助けしたことになるのであろうか?戦後の占領政策は、日本国憲法の制定だけではなくて、もっと、広範に、研究されても良さそうなものである。アラブの春は、受け皿作りに、失敗したのか、それとも、現場の統治機構、現地の文化・歴史を尊重しなかったからなのであろうか?一体、それならば、そんなことは、既に、第二次大戦の戦後の統治の中で、勉強を積んでいた筈ではなかったのか?麻縄の如く、乱れてしまった糸を、今や、どのように、一本一本づつ、どのように、解いてゆけるのであろうか?

 

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