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2016年2月

2016年2月29日 (月)

めちゃイケにみる笑いの世界:

めちゃイケにみる笑いの世界:

『適者生存』という言葉の英語の訳はSurvival is the fittestであるということを随分前に、教えられたことを想い出す。成る程、生存するには、環境に適合しなければならないのか?もう5年程も前になるのであろうか?当時、精神を病んでいた岡村への愛故なのかどうかは、知らぬが、唯一のズブの素人として、めちゃイケ新メンバーに、選出されたにも拘わらず、結局、みちのくプロレス修行も途中放棄したり、局側の温情を自らが、お笑いという仕事の戦線から敵前逃亡する形で、逃げていた一出演者を、まるで、公開処刑するような、要するに、自らの嘗て選出した『笑いの目利きの罪』を、引き受けることなく、国民投票なるdボタン方式なるもので、無自覚に、首を切るなどと言う企画自体が、既に、フジ・テレビという局の芸能番組という分野で、現在おかれているところの地位と問題点を浮き彫りにしているようにみえて、その意味では、なかなか、面白い。それにしても、お笑いの芸人の発掘なるものは、別の意味からすれば、流石のメディアをもってしても、要するに、紹介するプラットフォームが、あっても、非常に、難しいものなのであると云うことではなかろうか?或いは、演劇で云えば、舞台が、大きくても、小さくても、物理的に、確保されていても、もっとも、キャリアのない芸人や俳優というものは、そういう『舞台』にすら、既に、立てるものは、ごく一部の限られた『選ばれし者』だけが許されるものであって、大半は、生活を維持するために、毎日毎日、アルバイトで、働いて行かねば、そのエントリーさえも、出来ない現実があるのかも知れない。この主人公が、一体、過去、五年間に、出演料をどれ程、補償されていたのかは、定かではないが、番組の中で、いみじくも、ダイノジが、涙ながらに、語っていたように、玄人のお笑い芸人は、当時、藁にもすがる思いで、必至に、争ったものの、唯一、玄人ではない、『素人』という一点のみで、敗れ去った、その無念さは、逆に、そっちの方にこそ、芸人魂を見てとれるのはどうしたものであろうか?エアー・ギターでも、必死になって、舞台へ上がろうとした、ダイノジの方こそ、応援したくなってしまう。それにしても、お笑いというものは、一発ギャグでも、30年、50年、やり続ければ、一発『芸』になる可能性を秘めているものの、それをやり続けるという『恐怖』、それで、本当に喰っていけるのか、家族を養って行けるのかという重圧は、並大抵なことではなかろう。成る程、芸人というものは、お笑いの世界も、俳優もそうなのかも知れないが、企画して、或いは、ある種の作られたプラット・フォームが、事前に、与えられても、所詮、その俎上に挙げられた素材が、好機と捉え、活用しなければ、ものにしなければ、全く、機能しないということが、これからも、証明されようか?それにしても、子供の頃に見慣れた、公開オーディションなども、今や、全国的な第二の石原裕次郎オーディションではないが、どうも、この種の第二の○○とかというオーディション企画や、国民的な○○というものが、流行らなくなってしまったのは、何か、関連や理由があるのであろうか?どうやら、少なくとも、云えることは、お笑いの世界には、カネも、血縁や地盤や看板は、全く、通用しないということなのであろうか?20年後か、30年後には、きっと、『あの人は、今!』などと、性懲りもなく、又、二次・三次加工するのが、この業界の常なのではなかろうか?そんな後味の悪い番組だから、投票もしなければ、最後には、結果を確認することもなく、床についてしまった。案の定、不合格になってしまったらしい。そりゃ、そうであろう。それにしても、めちゃイケ自体が、或いは、その出演者自身こそが、そんな他人事で、いられるのであろうか?明日は、我が身であることをうすうす、感じてはいるのであろうが、、、、、。

2016年2月28日 (日)

G20で、資本の海外流出が止められるのか?:

G20で、資本の海外流出が止められるのか?:

各国の利害が激突する最中で、原油安と中国経済の先行き不安を払拭するために、各国が、一堂に会して、資本の海外流出を食い止めるために、中国に対して、構造改革も含めた抜本的な対策を要求するとされているが、果たして、額面通りに、うまく行くのであろうか?確かに、何らかの方策と妥協策が、世界経済の一定の安定化に向けては、打ち出されることは、必至であろうが、そんなに、簡単に、国際的なマネーは、一筋縄でいくような甘いものでもあるまい。翻って、日本を見ても、そもそも、自国の構造改革と財政問題を根本的に、解決する方策すら、見いだせないのに、隣国の余剰生産設備の廃棄や、経済構造の改革や金融・証券・外為通貨政策に於ける内部透明性の改善を、よくもまぁ、云えたものである。一体何処まで、本気で、物言いをするのであろうか?経済原理の原理原則で、今や、グローバルに、カネは、国境をいとも簡単に、容易く、水が低きに流れるかの如く、移動する時代である。資本や金融・財政政策の規制を相互に、設けようとするのであろうが、所詮は、世界的な最終的なババ抜きに終始することはないのであろうか?何処の国も、国益を犠牲にしてまで、自国に不利と承知の上で、合意するのであろうか?南シナ海の対立も見え隠れする中でのG20の成り行きは、それなりに、注目されてよいであろうし、今後の政治的な日程とも絡んで、どういう共通する政策が合意されるかたのしみである。

 

 

2016年2月26日 (金)

泡沫候補の底流:

泡沫候補の底流:

バーニー・サンダースやドナルド・トランプが、予備選挙の前に、これ程までに、善戦するとは、ワシントンの政治プロ達の中で、一体、誰が、的確に予想しえたのであろうか?それにしても、以前から、we are 99%というスローガンや、Occupy Wall street などのムーブメントを、政治のプロと称する者達は、どれ程、看過してきたことだろうか?今になって、自分が、誇れるものは、唯一、人種的なWhiteだけであることに気が付いてしまったPoor Whiteは、一体、どのようにして、American Dream を実現させ、Great America を復活させることが可能なのであろうか?又、没落の一途を辿っている中間層のこれ以上の没落を、どのようにして、食い止めるに足るような政策を打ち出せるのであろうか?日本でも、問題になっている学生への奨学金制度の貸し付けや返済の問題でも、社会に出る前から、10万ドルに近いローンを背負って、スタートしなければならない『ハンディキャップ・レース』に、本当に、『公平性と平等性』が、 何処に存在するのであろうか?民主主義というものは、今や、大衆の声なき声を、吸い上げて不満を解消するというシステムではなく、むしろ、大衆の漠然とした『不安や不満』を、ある種の過激なスローガンの下で、扇情的に、爆発させてしまうような状態に、陥ってしまっているのであろうか?欧州でみられたような極右勢力の国政への進出を懸念されるが故に、選挙民は、ある種の政治的な『バランス感覚』から、一定の勢力の拮抗を、一時的に、立ち止まりながら、選択したようであるが、米国では、どうやら、それが、未だ、機能しえずに、現在進行形の勢いであるようである。圧倒的な楽勝を予想されていたヒラリー・クリントンですら、これらの一連の流れには、抗えずに、中国バッシングや、日本の為替政策にも、言及し始めている。何か、まるで、日露戦争終結前夜の異常な身の程知らずな過大な要求に、似ていて、空恐ろしくすら感じられる。期待された、オバマの熱狂的な『change』も、今や、『revolution』や、『移民排斥』という掛け声の前には、何を言っても、今となっては、すべてに、遅きに失したようなものなのであろうか?翻って、国内に目を転じれば、コップの中での嵐に明け暮れて、党名変更だの、理念だとか、今更の如く、野合紛いの小異の争いの真っ最中である。米国では、それが、好ましいかどうかは、分からぬが、左右で、極端であっても、ある種のうねりが起きつつあるものの、我が国では、一向に、うねりは、起きる気配がないのは、どうしたことなのであろうか?今日は、考えてみれば、80年前に、2.26事件が起こった日である。

 

2016年2月25日 (木)

南シナ海でのレーダー・サイトの建設写真公開:

南シナ海でのレーダー・サイトの建設写真公開:

中国によるとされる一連の建設現場写真の公開は、一体、何を意味しているのであろうか?もともと、静止衛星なるものが、打ち上げられたときに、何でも、地上、30センチ四方の物体も、宇宙空間からの静止衛星による撮影では、簡単に、ものが識別出来ると、当時は、云われていたが、そんな時代から、今や、一体、何十年間が経過しているのであろうか?今や、防犯カメラの画像識別でも、デジタル化のお陰で、マスクを掛けていても、画像処理の上、或いは、深夜に疾走する車のナンバー・プレートまでもが、人の眼では識別不能であっても、デジタル処理やある種の加工により、その番号までもが、はっきりと、判明する時代に、滑走路やミサイルやレーダー基地の建設が、軍事衛星や監視衛星で、分からぬ訳がなかろうにとも思われるが、何で、今更、完成してから、写真が公開されるのであろうか?何でも、軍事筋の話では、そんなことを一々、公表していたら、こちらの手の内を、或いは、暗号コードを公表するようなもので、まるで、大韓航空機が撃墜されたのを公表した後で、一斉に、暗号コードが書き換えられたのと同じレベルのことなのであろうか?一体、何処まで、知っていて、或いは、どうなるであろうかを予測できたにも拘わらず、どういう意図を持って、建設途中で、公表しなかったのであろうか?完成した暁に、爆撃でもして、破壊できるとでも考えているのであろうか?それとも、的確な暗号解読が出来ているから、相手の動きなどは、手に取るように、分かるようになっているから、実は、そんなミサイルもレーダー基地も、危機でも何でもない、『想定範囲内』ということなのであろうか?何とも、素人眼には、この写真発表の意図が、判然としない。何のための偵察衛星や軍事監視衛星なのであろうか?軍事アナリストや軍事評論家というものも、実に、不可思議な職業である。嘗て、イスラエルが、イランの核関連施設が、建設完成間近になって、爆撃したことがあったが、一体、今回の中国軍の滑走路やレーダーサイトの建設、軍事化との違いは、何処が、違っていて、何処が、共通するのであろうか?どうも、素人眼には、チグハグで、その公表の意図が、判然としてこないのは、どうしたものであろうか?北朝鮮のミサイル開発についても、そんなことは、既に、前々から、分かりきったことでことであったのか?それとも、穿った見方に寄れば、意図的に、相手の出方を承知の上で、放っておいて、こちら側の自己防衛を正当化するためのある種の手段だったのかとか、時計を逆廻しにしない限り、分からないのであろうか?何故、未然に、防げなかったのか?それとも、防ごうといなかったある種の意図が明白に、存在するのか?

 

2016年2月23日 (火)

アルバイトの届けと同じレベルなのか?:

アルバイトの届けと同じレベルなのか?:

何とも、表現の自由とか、集会への参加への問題に、関して、とりわけ、18歳選挙権の付与に伴って、論じられている高校生のデモへの参加の届けに関して、可笑しな議論が起こっている。1960年代の後半には、今から、時計を逆廻しにしてみても、世界的に、何処でも、学生、とりわけ、若者による反乱が、そこかしこで、みられたものであるが、一体、どれ程の数の学生が、とりわけ、未成年や高校生も含めて、デモへの届けを出したのであろうか?アルバイトの届けとは、全く、異質の次元の異なるものであるにも拘わらず、公然と、『安全性』の問題に、すり替えられていることに、全く以て、驚いてしまう。どの時代でも、何処の国でも、若者には、『造反有理』が、心の何処かに、共通するものなのであり、決して、そんなものは、大人や親の了見や、社会の束縛から、拘束されるモノではない。五・四運動も、そうであったし、パリのカルチェ・ラタンでの5月革命も、韓国での学生による反軍事政権民主化運動も、天安門民主化暴動も、すべて、例外ではないし、これからも、政治を下から突き動かすムーブメント足りうるマグマのように煮えたぎるような憤りや怒りや不満は、既存のエスタブリッシュメント化された政治体制の枠組みの中で、安穏と治まりうるモノではない。それは、歴史が、証明していることであろう。何故、老人ばかりが、政治的な影響力を有していて、貧困家庭や片親や非正規労働者の政治的な影響力が、声がとどかないのかを、誰かが、したり顔に、分析していたが、本当にそうなのであろうか?今振り返ると、60年代の後半は、全く、不可思議な時代であったのかも知れない。一体、あの頃の若者は、あの紅衛兵達は、今、どうしているのであろうか、拝金主義と腐敗と富の格差にまみれた現実を、どう見ているのか?あのカルチェ・ラタンの街頭を占拠した若者達は、今、どのように、移民問題を考え、プラハの春をくぐり抜けた若者達は、何を思って生きているのであろうか?コロンビア大学で、銃剣をつけられたベトナム反戦デモに参加した若者達は、今、we are 99%に属しているのか、それとも、ITで、成功して、1%になっているのであろうか?アルバイトの届け出と一緒くたにされてはたまったモノではない。

 

2016年2月22日 (月)

ローパーと労働力の流動化は?:

ローパーと労働力の流動化は?:

Low Performance のことを、ロー・パーと称するらしいことを知る。考えてみれば、右肩上がりの時には、何もしなくても、需要が多くて、購入人口も溢れていて、所得も毎年、右肩上がりに、増えてゆき、スチャラカでも、スイスイ、スーダララッと、世の中を極楽蜻蛉然として、生きてゆけたのに、今や、そんな生き方自体が、全く、許されるような時代ではなくなってしまった。労働生産性というか、労働の価値などと云うクライテリアというものは、いつの時代でも、一定の基準があるものでもないし、企業の経営判断の数値基準もそうであるのかもしれないが、売り上げ中心とか、そうではなくて、総利益なのか、それとも、総労働時間とか、或いは、利益を稼ぎ出す上での実質的な費やされた実労働時間なのか、そうであれば、裏方で、まるで、撒き餌のように、或いは、私的な時間も使って、仕事のために使われたような時間も含めると、一体、どんな時間と利益と、更に云えば、個人だけではなくて、チームで実施されるようなプロジェクト型の仕事など、チーム構成員の経験とか、技能とか、そういった要素や要因といったものは、どのように、トータルな中で、或いは、分業との相関関係において、評価されるのであろうか?もっとも、それは、逆説的に謂えば、つねにそれは、『評価をする側』の一方的な価値判断の下で、行われるもので、決して、客観的且つ、双方が満足するようなものではないことは、明らかである。それが、嫌だったら、フリーランスの独立自営か、創業して、一匹狼の起業家になるしか、残された途はないのかも知れない。いつも、日本型の『労働の流動性』が、叫ばれて、既に、久しいけれども、所詮、『個人的な労働の在り方の個性的な追求』という美名の下に、呈の良い『非正規』が、既に、労働人口の4割にも達してしまっただけなのかも知れない。所詮、流動性とは、雇い止めやら、或いは、人材会社による、呈の良い、『人員の合理化』を、自らが、手を染めることなく、或いは、無自覚なまでの罪の意識のない、きれい事の二重構造なのかも知れない。だからこそ、『再就職支援助成金』の要件を悪用したリストラや人員削減への提言は、当たり前と云えば、当たり前なのかも知れない。いつまでたっても、常に、被評価される側では、何を云っても、正当に評価される試しはないことであろう。ローパーではなくて、自らが、ハイパーになろうとしなければ、駄目であろうことは、今更、誰に云われるまでもなく、分かりきっている。

 

2016年2月21日 (日)

IoTに思う:

IoTに思う:

何でも、Internet Of Thingsというコンセプトが、最近では、現実味を帯びてきて、何でも身近なものまでもが、インターネットに接続されて、その利用者のBig Dataの解析を制するものが、これからの産業を制すると云われ始めている。それにしても、その昔、若い頃には、『ユビキタス社会』なる言葉が、もてはやされ、近いうちに、ユビキタス社会の到来が、間近であると喧伝されたことを、想い起こすが、一体、この延長線上であるということなのであろうか?それにしても、いつも、議論されることは、新しい動きがある度に、国際的な統一基準を制するものが、すべてに、覇者となりうると考えられることである。それにしても、便利になればなる程、セキューリティーのガードも、しっかり、しておかないと、なりすましや知らぬ間に、被害者が、加害者に陥ってしまう怖れも決して、否定は出来ないのが、昨今の事象からも、容易に、判断出来ようというものである。家庭LAN内のWi-Fiルーターのセキューリティーに始まり、一体、この先、IoT, どんどん、技術革新と進化を繰り返し、便利な家電が普及してくると、一体、どんなリスクが、生じてくるのであろうか?もっとも、そんなリスクを開示していたら、折角の『夢の家電』も、世界制覇も、放棄してしまうものであるから、今から、そんなネガティブな危険性を指摘する馬鹿もいるまいが、、、、、、、。LINEの会話の公開などをみても、或いは、アップルとFBIとの個人情報のロックの解除を巡る法的な攻防も、一体、何処に向かって、行くのであろうか?無線発電ではないが、コンセントに、繋がずとも、自動的に、いつの間にか、充電できてしまうような仕組みと共に、ますます、人類は、AIの進化と共に、怠惰に、何も、考えなくなってしまうのであろうか?余りにも、技術革新の進化のスピードの速さに、驚くと共に、ついて行くのも、大変なことである。

 

2016年2月20日 (土)

白梅を生ける:

白梅を生ける:

何か、こう、描写すると、如何にも、高尚な趣味でも有していて、春先になると、庭の白梅を、生け花にでもして、観賞するのではないかと、錯覚を起こしてしまうから、面白いモノである。何と言うことはない。先月、女房殿の実家に、顔を出したときに、庭先の黄色いろうばいの花が、匂い立って、綺麗だったから、帰り際に、貰ってきて、玄関の花瓶に、挿しておいたところ、その香りが、何とも言えず、ほのかに、春先の香りを届けてくれたものの、やがて、その花達も、ひとつひとつと、落ちてしま、今では、そのかぐわしい臭いどころか、羞悪な枯れた花弁が、廊下に、落ちている始末である。書斎のシャッターも、冬場は、寒くて、暖房効率が悪いからと言う理由から、滅多に、開け放たれることもなかったが、先日、天気の良い日に、布団を干そうとベランダ越しに、二階から、階下に眼をやると、何と、知らぬ間に、白梅が、見事に咲いているではないか!特に、お礼の追肥をやるわけでもなく、何もしないでいるにも拘わらず、未だ寒い冬の2月には、毎年、決まって、蕾が大きくなり、やがて、これから、華々しく咲き乱れる春の花達の魁として、開花する。何と言うことはない、気まぐれに、シャッターを開け放てば、一瞬、その窓越しの風景が、パアッとその限られた空間だけが、一瞬にして、明るくなったのである。そこで、高枝切りを持ち出して、単に、徒長枝を、何本か、切ってきて、花瓶に、挿しただけの話である。その時に、恐らく、もう花時は、満開を少し、過ぎていたのであろうか、何片かの白い小さな花弁が、ひらひらと、廊下やフローリングの上に、落ちる。何とも、その花弁の落ち方が、堪らなく、宜しいではないか!まるで、それは、春の訪れを、自ら、その魁の役割を、終えたことを暗示するかの如きで、、、、、、、、。誠に、美しいと想う。花の美しさなどというものはないなどと、小林秀雄を想い起こすことも、必要ない。只、その一瞬の花弁の散り際だけを愉しめば宜しい。やがて、5輪の花弁が、開き尽くして、それは、散り始めることを暗示しているのかも知れない。無造作に、活けられたピンク色の桜草の花と一緒に、只、一枝、スックと伸びた短い枝振りに、密集した白梅は、まるで、『凜』とした孤高を、しばし、愉しんでいるかの如くである。敢えて、廊下やフローリングに、落ちた一枚の白い花弁は、きっと、間違いなく、誰かによって、『こんなところに、花びらが、落ちているわよ!誰も、気が付かないの?、誰も拾わないのかしら?』とばかり、綺麗さっぱりと、ゴミ箱に、消え去る運命にあることは、100%間違いないであろう。それまで、しばしのあいだ、そのゴミと間違われるまでの時間を、愉しもうではないか?この次、外国人に生け花の神髄を説明するときには、活けるまでの過程と、活けた後の散りゆくさまに関して、講釈を垂れてみたいとも考えてしまう。一輪挿しというものは、なかなか、面白いモノである。ホテルのロビーの大きな創作生け花も宜しいが、貧乏でも、金持ちでも、関係なしに、存在することのない花の美しさ(?)を愉しめるから、面白いのかも知れない。白梅の後には、雪柳、白木蓮、小手毬、沈丁花、ハナミズキの花達が、順番を争うかのように、蕾を大きくしながら、控えている。文学的には、やはり、白梅の一枝を手折ると言う表現のほうが、響きが宜しいであろうか?

2016年2月19日 (金)

辺見庸、『1★9★3★7』(イクミナ)を読む:

辺見庸、『1★9★3★7』(イクミナ)を読む:

歳をとるにつれて、段々、目が弱ってきはじめて、最近では、白内障を遅らせる眼薬を点眼するのを、ついうっかり忘れようものなら、鳥目ではないが、視界全体が、何やら、うっすらと、霧が掛かったように、ぼんやりとなってしまい、ページの文字が、ぼやけてしまい、老眼鏡を掛けても、いまいち、うまく読むことが出来ない。しかも、それ以上に、本の文字を追いながら、作者の意図をくみ取ろうとする集中力が、間違いなく、落ちていることに、残念乍ら、気づかざるをえない。そんなこんなで、本来、年末から正月休みかけて、何冊かの本を読破する予定で、購入したものの、結局、2月の終わり頃まで、眼をしょぼしょぼさせながら、やっと、読破し終えたところである。

本の内容に関しては、編集・飜訳の友人である専門家に、任せるとして、詳細は、別途、一連のブログで、下記の如く、参照して貰えれば、助かります。本稿では、主として、読む際の心構えを中心に、論じてみたいと思う。http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2015-11-21

三菱重工連続爆破事件の大道寺が、上梓した句集、『棺、一基』のなかで、確か、辺見は、その情景を、まるで、何処か、茫洋とした霧のような靄に蔽われた中で、棺が、一基、おかれているような感じであると評していたが、この『1★9★3★7』の読後感というものは、更に、謂いようのない、何とも、後味の悪い、まるで、何か、悪いものを見た時のような、或いは、悪いものを食してしまった後味の悪さのようなものを、感じざるをえない。謂わば、『良薬は口に苦し!』といったモノなのかも知れない。初めから、心地良さなるものを期待して、読み始めると、緒から、落胆することは間違いないであろう。極めて、居心地の悪さを感じながら、読み進まなければならない、謂わば、映画で謂えば、Rの数が、大変大きな数字であろうか?

そもそも、『記憶の墓場を暴く』という言葉事体が、もはや、一定の覚悟を読む側に要求するかの如くであろうか、考えてみれば、1937年という年は、私が、生まれた約10年ほど前の出来事で有り、それから、8年後には、戦争が終わり、私の生まれた1948年の2年後には、朝鮮戦争が、勃発している。戦争前の10数年前、或いは、天皇による戦後30年談話、或いは、戦後50年、戦後70年という区切りは、本当に、そんな区切りは、可能なのであろうか?それにしても、加害者と被害者を繋ぐ、歴史認識、様々な文化人・政治学者により分析された日本ファシズムのメカニズム、とりわけ、心理的精神的な超国家主義の分析や、多くの小説家や評論家による戦中・戦後の著作や、コメントを、引用しながら、論評するその鋭さは、まるで、さながら、無制限一本勝負の異種格闘技戦デス・マッチの様相である。本書の中に、登場する数多くの評論対象者の著作は、少なくとも、私にとっては、複数の著作は、既に、読みおわったか、或いは、何らかの形で、影響をこれまで受けていたことは間違いあるまい。それらを悉くと謂っては何であるが、根底から、木っ端微塵に打ち砕かれるというのは、読む側の読者にとっては、とても、耐えられないことではなかろうか。作家では、永井荷風、大岡昇平、野間宏、武田泰淳、火野葦平、堀田善衛、金子光晴、石川達三、富士正晴、阿川弘之、そして、名だたる文化人・評論家・学者達までも、小林秀雄、丸山真男、梯秀明、埴生雄高、林房雄、家永三郎、半藤一利、相馬御風、串田孫一そして、吉本隆明ですら、その呵責のない墓を暴こうとする強い意思には、抗することは出来ない。映画の小津安二郎にしても、その映画の描写には、鋭く、切り込んで、その静けさのありふれた日常の場面描写の心の奥深くに潜むものを暴いてしまう。『海ゆかば』の歌詞やメロディーと早稲田の校歌の底流に潜む共通性や、勇ましい行進曲の旋律などの考察も、何か、改めて、気づかされて愕然とするのは、どうしたものであろうか?超国家主義の二重抑圧構造やら、無責任体系の分析も、或いは、今日的な歴史認識の問題も、『現在が過去に追い抜かれ、未来に過去がやってくる』という強迫観念に強い感情も、決して、ズルズルと、そう、なることとなったり、或いは、そう、『なってしまった、』更には、『なっていた』と気が付く時には、全く、茹で蛙状態で、取り返しがつかない、確かに、時間的な経過となっているのである。嘗て、若い時に、両親の世代に対して、『何故、あんな無謀な戦争を止められなかったのか?あんたは何をしたのか?』と詰問したそのこと自体が、そっくりそのまま、今度は、自らに、鋭く、将来、対峙する可能性はないのだろうか?一体、時間とは、『今』とは、何か?そして、記憶とは何か、忘れてしまうとは、どういう意味なのか?忘れないと言うことは、忘れてよいことと、忘れてしまってはいけないこととは、何なのか?私達の脳細胞は、生まれたその瞬間から、脳科学者によれば、忘れるように、出来ているというではないか?それでは、歴史は、いつまでたっても、過ちを繰り返すであろう。考えてみれば、この8年後には、戦争が終わり、その戦後3年ほど後に、自分は、生まれて、再び、その2年後には、朝鮮半島で、戦争が勃発して、その10年後、第一次安保闘争があり、ベトナム戦争を挟んで、第二次安保闘争があり、天皇による戦後30年談話、更には、戦後50年談話、70年談話へと繋がっているが、確かに、『記憶の墓を暴く』という作業は、自らの手で、行った試しは、なかったのかも知れない。加害者と被害者とが、依然として、その歴史認識において、交わらないように、今日、まるで、虐めの加害者が、いつまでたっても、加害者意識を、その関係性の中で、認識しないように、同じ繰り返しが、裁ち切れないでいる。あんなに、進歩的文化人や戦後民主主義の虚妄を暴かれても、或いは、あれ程、鋭く問われた自己否定も、一体、今日、何だったのであろうかと、思われてしまう。阿川弘之への『化石しろ、醜い骸骨!』と言う罵声も、一定の距離感を敢えて保つことを偶然の出会い頭でのふとした衝突なのか、それとも、仕組まれた老人への宣戦布告だったのだろうか?阿川ではなくて、三島由紀夫だったら、どうだったのだろうか?或いは、吉本隆明だったら、更には、司馬遼太郎だったら、どうだったのであろうか?と、私の頭の中では、妄想が、まるで、無制限一本勝負の何でもありの幻のデス・マッチか、或いは、全員参加でバトル・ロワイヤルを、熱望してしまいそうである。もう、眼の前にある、ただ、茫洋とした視界不良は、実は、初期白内障ではなくて、そんな進行を遅らせる小手先だけの眼薬による治療だけでは、視界が、晴れることはなくて、自らの手で、自らの記憶と過去の時間を、自らの墓を掘り起こすかのように、暴かない限り、そうやら、視界不良のままなのかも知れない。読み終わると、まるで、自分の頭を、ぶっとい棍棒のようなもので、ガツンと殴られたかの如き感覚に襲われる。

 

2016年2月18日 (木)

三遊亭円丈、『グリコ少年』を聴く:

三遊亭円丈、『グリコ少年』を聴く:

浅草の六区にある、浅草演芸ホールなどというところは、その昔、母に連れられて、浅草寺にお参りに行くとき、仲店通りを歩いているときに、何やら、お化け屋敷やら、いかがわしい見世物小屋があるから、しっかり、手を握って放さないようにと、言われたことを、どういう訳か、幼い子供心に、残っていたことを想い出す。それにしても、すっかり、通りも、近代的に生まれ変わってしまったものである。外人観光客も、これならば、浅草の仲店通りから、下町情緒を愉しむために、人力車による散策も可能なことであろう。落語は、古典落語も宜しいが、手品や紙切りや曲芸、漫才、漫談も含めた、演芸ものを、ただ、所在なげに、愉しむことも、なかなか、贅沢な半日の過ごし方ではないだろうか?これが、毎日だと、ある意味で、大変なことであろうが、たまには、そんな贅沢な時間の過ごし方があっても良さそうである。今日は、女房殿も伴って、半日、お昼の部を、浅草演芸ホールで、落語鑑賞会の会で、更に、終了後は、久しぶりでの駒形、どぜう鍋をつつくという趣向である。申年生まれの年男だから、この噺家も、72歳になるそうである。同じ昼の部で、出演していた川柳川柳とは、圓生の許で、兄弟弟子の関係で、本人も謂っていたが、前座時代には、意味不明なぬう生という名前であったらしい。それにしても、師匠・弟子という関係の中では、他の出演者もそうであるように、師匠による圧倒的な命名権の専権事項であるが故に、天どんとか、小田原丈などという命名をされた事例があることに、改めて、驚いてしまう。

古典落語とは、ことなり、実験落語家、創作落語というものは、開口一番で、よく使用される、『寿限無』なども、よくよく、古典的な噺を、まさに、その演じる側の口八丁、手八丁で、バイオ・テクノロジーや、スタップ細胞事件や、様々なアップ・デートな話題を絡めることで、全く、新しいバージョン・アップした異次元の新たな落語へと、リメイクされるということは、落語という話芸は、本当に、奥深いし、そこには、一定の先人の著作権を尊重されながらも、自由に、脚色したり、或いは、されることを決して、しかつめらしく、著作権を侵害するななどという野暮ったい台詞を吐くことなく、何か、すべてを『笑いの文化』というオブラートの中で、包み込んでしまうようなそんな大きな『創造的な自由闊達さ』が、あるように、思われるのは、何故なのであろうか?試しに、古典的な『寿限無』も、噺家が、変われば、各人各様の十人十色の噺が、聴かれるのかも知れない。その意味からすれば、まさに、これこそ、『噺』とは、口で、新しく噺を創造し、演じるもので、噺家というものは、それを創造するプロデューサーや演者なのかもしれない。

私は、圓丈よりも、少しばかり、若い世代であるものの、『グリコ少年』に登場する、様々な噺の素材、とりわけ、コーラ、コーヒー、ピザ、砂糖、人工甘味料、給食の脱脂粉乳ミルク、おまけ付きグリコ・キャラメル、森永キャラメル、甘辛・ピリ辛、カバヤ製菓、フルヤ、不二家もペコちゃん、ミルキー、アーモンド・チョコレート、渡辺の粉末ジュースの素、駄菓子屋、サクマのドロップ、サイコロ・キャラメル、等…、どれも、懐かしい食文化の歴史の一コマで有り、又、実は、それは、食文化のみならず、当時の世相や心持ちを表している人生の一場面での宝石にも匹敵するかのようなキーワードのようでもあり、自分たちの『人生そのもの』なのかもしれない。逆説的に謂えば、これらのキーワードを知らない世代には、将来、笑われることのないようなのかも知れない。偉大なキャッチ・コピーとして、大正末期に、使用された、『一粒で300m走れる』というものも、『ミルキーは、お母さんの味』なども、記憶の片隅で、否、実験落語という範疇の中で、まるで、化石のように、時間と共に、永遠に、語り継がれるのであろうか?それとも、古典落語のように、進化しつつ、受け継がれてゆくのであろうか?それにしても、平日の浅草演芸ホールは、団体客とは云え、満席の熱気の中で、程よい距離感の中で、最後には、恒例の節分の豆まきよろしく、グリコ製品を播き散らかして、福のお裾分けとは、実に、嬉しい限りである。終了後に、駒形でのどぜう鍋、どぜう尽くしという定番のコースは、何か、病みつきになりそうである。子供や若い人も、こういう一時を、是非、愉しむことをお薦めしたいものである。固有名詞が忘れがちであると謂うのも、ご愛敬で、健康に留意して貰って、末永く、演じ続けてもらいたいモノである。ドッカン、ドッカン、楽屋裏でも、受けていたことを他の参加者達も、実感されたことであろう。又、機会を改めて、聴きたいものである。少しは、右脳が、果たして、これで、再生されたであろうか?

 

 

2016年2月14日 (日)

デザイナー・フィッシュ?:

デザイナー・フィッシュ?:

海老の海外加工・生産・輸入業に携わっていたときに、少しばかり、原料である海老の養殖を勉強をしたことがあった。その時、原料の安定供給のためには、まずは、病気に強いこと、そして、養殖時間が短いこと、そして、環境汚染、この時には、塩害が問題になっていたが、更には、飼料も含めた、複合的な垂直統合的な供給システムが、必要であることを学んだものである。あれから、もう、既に、20年余が経過している。その当時は、むしろ、畜産のように、認可されていない抗菌剤や抗生物質の使用のほうが、大きな問題と扱われていた。もちろん、当時から、農産物での遺伝子組み換えとか、有機栽培とか、様々な議論はあったが、鰻や鮪などの養殖やら、畜養などと共に、将来の資源の枯渇に向けての安定的な確保を如何にして、対応するかという視点に、重点が置かれていた。今日、既に、魚の養殖の世界では、病気に強いとか、成長が早いとか、そのDNAを比較検討して、その特性を有した配列(マーカー)を選抜して、育種するという手法が、ノルウェイ・サーモンではないが、様々な魚種で、試作され、現在進行中であるらしい。更には、その養殖の際に使用される飼料ですら、菜食主義ではないが、これまで、人間が実際食べている魚を利用した飼料ではなくて、植物由来とか、人間が食べない材料で、養殖する技術を確立しようとしている。こんな線上には、植物由来の魚などというますます、ヘルシーな魚のイメージが、売り物になってくるのであろうか?それにしても、農産物では、遺伝子組合の安全性が、問題視され、貿易交渉にまで、影響が波及しているのに対して、魚の方では、随分と違った状況になりつつあるものである。天然真鯛と近大真鯛、ブリも、ヒラメも、鮪も、水田で、簡単に養殖される鯉も、将来は、どんな形で、消費者に、提供されるのであろうか?原産地だけでなく、既に、様々な科学的な手法で、食卓のデザイナー化への革命が、現在進行形で、進んでいるのかもしれない。医食同源ではないが、魚に、あんたは、何を食べて、育てられたのですか?と尋ねると、同時に、逆に、人間のほうが、貴方こそ、何を食べて育ったのですかと、問われそうである。いやはや、大変な時代が現在進行形で、進行中であることに、驚いてしまう。

 

2016年2月13日 (土)

韓国、開城の操業中断:

韓国、開城の操業中断:

中国が、石油の北朝鮮への供給を止まない限り、何をやっても、北朝鮮への制裁は、実効性のあるものではないことは、誰の眼をみるまでもなく、分かりきっている。可哀想なことに、韓国内で、散々、煮え湯を飲まされてきた開城の団地に、進出している中小企業は、一体、どんな操業停止に伴う政府補償を受け取れるのであろうか?それとも、これまで、散々、安い労働工賃で、儲けてきたのであるから、何の補償も見返りもないのであろうか?それにしても、投資した機械や設備などは、どうしたものなのであろうか?北朝鮮側にそっくりそのまま、接収されてしまうのであろうか?それとも、仕掛かり途中の原材料などや半製品などは、誰のリスクで、一体、契約書には、そんなリスクも、記載されてはいないのであろうか?団地での操業契約書を覗いてみたいものである。それにしても、過去の政治的、軍事的な対立がある度に、この開城の団地は、その都度、操業の停止・中断に追い込まれてしまう。もはや、現代財閥創業者による第二の金剛山観光にもなりかねない。もっとも、恐らくは、進出している先の中国の企業は、しっかりと、何の制裁も科せられることなく、今日も操業を続けていることは間違いないであろう。もっとも、現在は、既に、旧正月入りだから、みんな旧正月休みで、帰国しているのであろうか?韓国の後釜は、そっくり居抜きで、中国企業が戴くのであろうか?しかし、それにしても、なかなか、したたかな国である。ある意味では、こうしたかの国のしたたかさは、我々、日本人や日本という国は、反面で、しっかりと学ばなければならないのかも知れない。忠誠を誓ったはずの人民軍の軍総参謀長までもが、未確認情報では、処刑・粛正されてしまったというが、その昔の韓国での朴大統領暗殺事件を、想い起こさざるをえない。もう、ここまでくると、まるで、こうなると、戦国時代ではないが、光秀の謀反を防ぎきれなかった信長の末路を、日本人は、想像せざるを得なくなるかもしれない。どんなシナリオを、一体、日本の諜報機関は、幾つ、持っているのであろうか?中国にとって、韓国にとって、米国にとって、そして、日本にとって、どんなシナリオが、ベストで、或いは、ベターで、更には、ワースで、そして、最悪のシナリオは、?外交評論家は、決して、口を開こうとしないが、、、、、誰か、ポートフォリオ分析をする軍事・外交評論家は、いないのであろうか?マトリックス分析が、出来そうな気がしないでもなかろうに、、、、、、、。そうした最中での韓国による核武装論や日本による核武装論の論議は、なかなか、興味深いものがある。それらの議論が現実的か否かは、別にしても、両国の心理的なフラストレーションが、理解出来なくもない。即ち、韓国側にしてみれば、対話と平和外交という大義名分の下、一方で、融和策やら、中国頼みの経済外交政策にも拘わらず、思うような期待するシナリオにはならず、勝手気儘にやられ、かといって、日米中の狭間の中で、軍事的な抗戦論を唱えるわけにも行かず、又、さりとて、反日の国是を、曲げるわけにもゆかず、米国の政治的な圧力や核の傘の下、日米との連携もせざるを得ず、ひたすら、我慢とフラストが、経済運営の悪化とも伴いつつ、飽和点に、達しようとしているのであろうか?誠に、八方ふさがりの打つ手なしの状況であろうか?拉致問題も、これでは、どうなることか分からないであろうし、何処の国も、打つ手がないのが、現状なのであろうか?火中の栗を敢えて拾おうとする国は、当面、出てきそうにない。

 

2016年2月12日 (金)

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:

角川シネマ新宿、『ディーパンの闘い』:
映画というものは、見終わった後で、何か、悪いものを食べてしまった様な後味が感じを抱くのも、又、ホッと胸をなで下ろすのも、監督の胸先三寸なのであろうか?その意味では、この重苦しいテーマに富む映画のエンディングと、生き詰まるラスト10分間の展開には、ある種の監督へ感謝の意味を伝えなければならないかも知れない。カンヌ映画祭のパルムドール最高賞受賞作品であるのも、成る程、納得される。四半世紀にも及ぶ長いスリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎との内戦によって生じた主人公達・難民が、偽装家族になりすまして、フランスへと渡るが、異国の地で、文化も、宗教も、言葉も、異なる環境下で、互いの絆と愛を深めながらも、現地の麻薬組織の売人チンピラ・グループの抗争に巻き込まれる中で、やむなく、過去に、決別した暴力から、逃れられなくなるという、まるで、昔の任侠路線の映画さながらの内容であるものの、そこには、今日的な重い問いかけとしての、『政治難民』、『異文化・共生』、『宗教の違い』、『学校での虐め』、『家族とは』、『identity』、『二重の差別』、『貧困とは』、そして、人間は、そんな中で、果たして、どのように、生きていくべきなのか?そして、どんな限られた選択肢が、残されているのか?それとも、残されていなかったら、どんな選択肢を選ばなければならないのであろうか?パスポート入手のための偽装家族という形から、本当の真の家族・夫婦・親子へと時間的な経過と共に、露わになって行くフランス郊外の老朽化した団地に巣くう犯罪者集団の抗争を通じて、しかも、そのフランス人チンピラの世界でも、同じくよそ者としての二重の差別と貧困の関係が、描かれてもいる。それは、紛れもなく、表の一見、平和そうな、幸福そうに見えるシャバの世界も、又、裏で、生き抜いている難民達の世界も、同じように、どこか、『暴力』という力による世界の均衡が、微妙に、何かのきっかけひとつで、崩壊してしまうきわどいガラス細工のような壊れやすい世界なのかも知れない。古アパートの管理人という職業も、家政婦という職業も又、生き抜くためには、殺されるよりはマシという限られた選択肢の一つであることを、私達は、頭で、理解出来ても、本当に、理解出来るのであろうか?カメラワークの中で、逆光線を活用したようなシーンが、幾つか、みられるし、又、元ゲリラ兵士であったディーパンの心の奥底に潜むであろうドロドロした鬱積したマグマのような怨念が、崇高なインド象の映像と共に、ジャングルの密林の中から、垣間見られるのは、何かを象徴しているようでもある。それでも、エンディングが、結局、妻の姪がすむイギリスへ渡れたと云う事、そして、二人の子供とおぼしき赤ん坊をあやすシーンには、やはり、胸をなで下ろせたことは、地中海で、難破して溺死したり、チンピラの抗争で、流れ弾に当たって、非業の死を遂げるエンディングよりは、マシなのかもしれない。或る日、突然、管理人に、難民がなったら、我々は、どんな対応をするのであろうか?彼らのidentityや尊厳を、しっかりと、日本人は、人間として、リスペクト出来るであろうか?考えさせられる映画である。

2016年2月11日 (木)

仕事がなくなるという恐怖:

仕事がなくなるという恐怖: 冗談めかしく、『(教養)今日、用事がない』とか、『(教育)今日、行くところがない』などと、笑って言っているうちが、花であって、本当にそうなってしまうと、考え込んでしまうものであろう。何でも、これからは、破壊的な技術革新の発展や、人工頭脳の進展如何では、100以上もの職業が、この世の中から、消滅してしまう可能性が大きいといわれている。それにしても、訳の分からぬような『生産性向上』とか、『高付加価値化』などと言われると、私などは、『ほんまかいな!?』などと、疑いの眼で、みた上に、聞き返してしまう。破壊的な技術による、或いは、新たなビジネス・モデルの異業種からの参入や出現で、或る日、突然、これまで過去の繁栄を極めてきた業種が、恐竜の滅亡のように、苦戦を強いられることも、決して、あながち、間違った見方とは云えなくもない。例えば、FinTechではないが、近い将来、銀行・証券会社なども、膨大な信用データなどという財産に胡座をかいていると、どこかの若造IT起業家による新たな投資サービスで、足許を掬われかねないかも知れないし、ウーバーやAirbnbなどの、それこそ、法的な隙間を巧みに、かいくぐっているような新たな隠れた需要を掘り起こした新たなビジネス・モデルに、タクシーや旅館業・ホテルなどの業界も、あっさりと、やられてしまうかも知れない。破壊的な技術革新というものが、人々に与える、『仕事を奪われかねないという恐怖』に対して、一体、我々は、どのように、自らを防衛しなければならないのであろうか?どんなに、善意で、政府に期待したところで、今や、何処の世界をみても、そんなことを真剣に、考えてくれるような政府は、何処にも存在しないであろう。人工頭脳は、ますます、今後、人間の有する特性である、『予想・予測・判断』というクリティカルな分野にまで、応用が、進化・発展することは間違いであろうし、単なる自動運転とか、無人化だけには留まらなくなるであろうことは、誰の目を見ても理解出来よう。更には、人間固有の『定型化されえない』仕事にも、触手を伸ばしかねないかも知れない。対人スキルとか、クリエイター・スキルとか、芸術だとか、安閑としていられるのも、今や、時間の問題なのかも知れない。フレキシ・キュリティー(Flexible+Security)なることばのように、離職に伴う、ある一定期間での賃金的な保証を付与する代わりに、柔軟に、労働力の流動化と職業訓練を施すことで、より新たな職種へと転換されるプログラムのようなものが、これからは、必要になってくるのであろうか?そのことは、東日本大震災からの復興にも云えるわけで、何も、元に、物理的に、戻ることが、復興では決してなかろうに、、、、とも思われる。謂わば、自らが、自身の手で、革新性を身につけることが可能なような人材育成や継続的な再教育システムを、受けられるような仕組みとして、社会に存在しない限り、或いは、それを誰もが自由に選択できる環境を提供しない限り、何日までたっても、『仕事がなくなる恐怖』というものは、永久に続くであろうし、決して、労働市場の革新的な流動化は、生じることなく、又、成長への萌芽や一大転換などは、起きるべくして起きることにはならないような気がしてならない。ハロー・ワークなどは、その意味では、何の役にも立たないのかもしれない。

2016年2月10日 (水)

中高年非正規の増加と実質賃金低下:

中高年非正規の増加と実質賃金低下:

それにしても、随分とバラ色の未来が、その輝きどころか、深刻な展開になってきてしまったものである。一体、非正規労働者の高齢化は、ますます、留まるところを知らないのが現状なのであろうか?石油価格が高騰しても、先行きが懸念され、為替が円安になったから、景気が回復するかと思いきや、今度は、輸出が伸び悩み、おまけに、今度は、日銀の黒田派による旧白川派に対する多数決によって、マイナス金利へと、一体、どっちに転んでも、エコノミストの云う事は、当たった試しがない。もし、当たるとすれば、それは、時間軸を逆廻しにして、将来から過去を見渡したときだけなのかも知れない。それ程、あらゆる事態が、先読みと先取りと、折り込み済みと、或いは、真逆のサプライズか、異次元の対応か、バズーカか、などであろうか?官製政府主導による賃上げも、最近では、一向に、聴かれなくなってしまったし、産業界も、世界的な株安と中国経済の減速と資源役の中では、体力を身構えないとやっていけないとばかりに、萎縮してしまうのであろうか?もはや、一応、報道自主規制ではないが、一億総萎縮化状態へと陥ってしまうのであろうか?何とも、お先の見えない、状態へと向かいつつあるのであろうか?年寄りは、ますます、年金防衛に、邁進し、体力作りと、定年雇用延長で、若者の仕事を浸食し、しっかりと、居座ったままで、まるで、そのこれまで築きあげてきた、既得権益を、死ぬまで、決して、放さないぞとばかりに、若者への富や知の移転を、拒んでいるかのようである。すっかり、最近では、成長戦略の3本の矢も、聞かれなくなりつつあるし、ましてや、岩盤規制の改革などという言葉も、バス事故以来、安全の開放・改革後退の影に隠れて、或いは、甘利の一件以来、はかばかしくない。米国大統領予備選も、共和・民主共に、極端な左右の政治候補や、世論の動向は、これ又、心配の種である。まるで、世界的に、どこもかしこも、南極の氷河が、溶けだしてゆくかのような様相を呈し始めているようで、何とも、薄気味悪い様な気がしてならない。こういうときには、不思議と、深刻な天災や事故や、おぞましい事件が、起きなければ宜しいが、、、、、、。

 

2016年2月 9日 (火)

朝の長い行列:

朝の長い行列: 10時開店なのであろうか?パチスロも携帯のゲームもやったことがないから、長い行列をしてまで、朝の開店前から、50人程の長い行列を作る理由が理解しかねる。10人程の列が、5列程も、スマホを眺めたりして、ポケットに、手を突っ込んで、寒そうに、並んでいるが、そのどの顔も、というよりも、その雰囲気が、どうも、暗くて、感じが悪い。まるで、ナチス時代のゲットーにいるユダヤ人みたいである。どうみても、愉しそうな生き生きとした雰囲気は、そこからは、感じられない。若い人達もいれば、又、明らかに、中高年とおぼしき人達が混じっている。年寄りは、余り見受けられない。一体、パチスロで、如何ばかりかの人達が、パチスロ御殿を建てることが出来るのであろうか?流石に、競馬で、馬主が、誇らしげに、勝ち馬と一緒に、記念撮影をしているところは、見かけるものの、パチスロのプロで、御殿を建てたという話は、皆目、聞いた試しがない。それにしても、朝の10時前から、如何にも、非生産的である。時間の無駄でもあろうし、この人達は、一体、どのくらいの金額を、どのくらいの時間を掛けて、稼ぎ出すのであろうか、それとも、どのくらいの損失を、否、お店に、銭を献上するのであろうか、しかも、その費やされた時間を勘案したら、どんなものであろうか?それにしても、一の時間とエネルギーを盗んでおいて、如何にも、夢とか遊戯とかという言葉で、語られると、エンタテイメントやゲームの世界とは、本当は、どんな世界なのであろうか?

2016年2月 8日 (月)

防衛関連企業へのサイバー攻撃:

防衛関連企業へのサイバー攻撃:

年金機構の情報の漏洩は、今から、時間を巻き戻してみれば、『エムディビ』の攻撃であったことが、窺えるということは、穿った見方をすれば、被害者側にも、そんなに、被害者面して、本当に、一方的に、情報の漏洩ばかりを冴えているのであろうか?サイバー空間での闘いというものは、如何にも、1000単位での被害というこれまで類をみないほどのダメージを受けているということになっているらしい。確かに、国家的なある一定の使命を帯びた国外からの犯行グループによる攻撃に対して、その手口と経路が分かっていれば、考えてみれば、被害者側も、実は、巧妙に、逆スパイではないが、或いは、二重スパイではないが、イスラエル辺りならば、とうの昔に、そんなことをモサド辺りは、やっているに違いなく、日本の諜報機関も、そんなことは、充分考えられることもなかろうかと思われる。そうするに、一見、被害者が、一方的に、やられっぱなしで、加害者が、水飲み型攻撃を、マルウェアに仕込んで、一方的に、やっているとも、実は、考えにくい。むろん、気が付かずに、やられてしまったと云うことが、実態なのであろうが、或いは、どんな情報が、流出・漏洩されたかが、分からないなどと報道されても、如何にも、暗号コードを解明できたなどと、報道する馬鹿は、何処にもいないであろう。先端情報などは、防衛産業の周辺企業でも、当該の官庁でも、漏洩攻撃をされる側の情報も、おとりの罠ではないが、情報の漏洩を前提にした、ウィルスの罠を仕込んだ情報を、逆に、仕込んでいないとも限らない。無論、そんなことをやっているとか、実は、既に、あちら側の情報も、しっかりと、筒抜けに入手出来ている仕組みを張り巡らせているやかも知れない。根こそぎ情報を盗み取ることは、知的財産を知らぬ間に、蝕まれることになっており、食い荒らされていることすら、分からないように、しているのかも知れないが、それでも、身も知らぬ第三者を乗っ取ったり、なりすましで、複数のサーバーを経由して、巧妙に、行われているのであろうが、それでも、追跡が出来ないわけではないであろう。むしろ、記録の追跡による真相解明が出来なければ、今後は、全く、別の『眼には眼を』という被害者側からの反撃が、執られることは、間違いないであろう。冷戦下で、かつて、ソ連のスパイ網が、米国における原爆開発情報を盗み取ったように、今や、ソーラー・パネルも、ステルス戦闘機開発も、先端産業、知的財産権スパイも、すべて、そのような意味合いから、慎重に、考えておかなければならないであろう。被害者側は、決して、被害者然としては、これからは、していることは、あり得ないであろう。特定の悪意を有した攻撃者に対して、これまでの善意を前提にした対応だけでは難しいのも、事実であろう。敵の攻撃から、自らを防御するには、まずは、味方から、騙さなければ難しいのかも知れない。

 

2016年2月 7日 (日)

ワースト経営者とは

ワースト経営者とは:

ネットのニュース記事を読んでいたら、ワースト経営者に、あのワタミの参議院議員の渡辺某が、読者から、選出されたらしい。それによれば、悪名高い、『ブラック企業』のイメージが、ついて回ることになった、『過労自殺死』の裁判の件が、大きく影響したそうである。しかも、日経ビジネスの『敗軍の将、兵を語る』という記事の中でも、自分の主張する真意が、伝わらず、もっと、早めに、和解しておけば、よかったなどと言うコメントが、原因であるともされている。だいたい、この『敗軍の将、兵を語る』などという記事自体に、私は、大変、不快な想い出がある。そもそも、昔、日経が、確か、経営者オブ・ザ・イヤーとか、ベンチャーオブザイヤーとかを、散々、囃し立てていた頃に、確か、一世を風靡していた、VTRのモーターを手掛けていた、確か、記憶が間違っていなければ、その経営者を、礼賛する提灯記事を書いていたのに、数年後には、それが、破綻した途端に、この記事のコーナーに、登場したのを、今でも覚えているし、それ以来、この類の出版物や記事は、読まないことにしたものである。世の中というものは、そんなものなのかも知れない。それにしても、多かれ少なかれ、外食業などの創業者には、ある種の『狂気のようなカリスマ性』を有していないと、生き馬の目を抜くような激しい業界の競争の中では、新しいビジネス・モデルを、作り出せないのも、事実なのかも知れない。もっとも、だからといって、24時間・365日働きづめを強いたり、或いは、労働監督局から、労働条件の改選命令を、勧告されても一向に構わないと言うモノでもなかろう。そんなワタナベの次期参議院の再選は、間違いなく、ないであろう。ネットで、評価というモノは、なかなか、面白いモノである。これに対して、人気一番手は、稲盛某であると、成る程、人の評価というモノは、藤田田ではないが、『勝てば官軍』で、私が若い頃には、京都セラミクスなどは、低賃金、長時間労働で、全く、人気がなかったモノであるが、流石に、40年余りも経過すると、評価が、変わるモノである。面白いことに、どこかの大手外食チェーンのカサノバ社長も、ワースト10に顔を出しているのは、なかなか、興味深いモノである。早く、髪の毛をブロンドに、ヒラリー・クリントンみたいに、何故、染めないのであろう?それだけでも、全く、イメージが、違って、日本人には、好感度が、上がるというモノであろうが、、、、、、10年後、20年後の経営者ワースト10には、誰が、顔を出すのであろうか?歴代の東芝の社長が、既に、顔を出しているらしいが、シャープなどは、どうなるのであろうか?鴻海(ホンハイ)との買収に傾きつつあるシャープの経営者の判断は、後世の人には、どう映るのであろうか?

 

2016年2月 5日 (金)

鴻海(ホンハイ)のシャープ買収は、成功するのか?:

鴻海(ホンハイ)のシャープ買収は、成功するのか?:

「鴻飛千里、海納百川」(鴻(大 きな雁)は千里を飛び、海はすべての川を納める) という意味で、企業が大きく羽ばたくよう期待し た縁起がいいネーミングであるそうである。

もっとも、70年代半ばには、所詮、テレビの選局チャネルのプラスチック部品を生産していたという中小企業が、後に、EMS事業でパソコン生産・アップルとの協業などへ、進出成功しようとは、同業者や、創業者ですら、想像だにしたであろうか?実際、数多くの当時の同業他社は、消え去ってしまったのも事実であるが、、、、、、。これまでの鴻海が辿ってきた『勝利の方程式』が、将来も、そのまま、通用するのであろうか?中国での安い労働力を活用して成長した、OEM事業や、BTOから、CTOConfiguration to order)へという流れや、その最中でのアップルのスマホ事業も、必ずしも、今や、盤石とは言い切れない、中国国内での人件費の高騰やスマホの成長の鈍化と新規商品の不透明性など、様々な不安定要素が、顕在化しつつあるのも、事実である。実に、『国外への技術の流出を阻止する』などというお題目は、圧倒的な、買収金額の前には、何の意味がないことを、今般の交渉は、皮肉っぽく、考えさせられてしまう。それなら、何が何でも、いくら金を積んででも、そうするべきではないかと思うし、尤も、その反面で、ホンマかいな?という懐疑心が、心の底にないわけではない。そんな産業再生機構へ国家官僚が、自分の責任と命を懸けた様な決断をするわけがないだろうに、、、、、、とも、思ってしまうのは、困ったものである。今日、後藤新平のような、そんな骨太の官僚などは、いるのであろうか?可笑しなことに、散々、高付加価値を追求してきたブランド側も、実際、これまで、その歴史的な発展を辿ってみれば、ナショナルでも、初めは、電灯のソケットや、自転車のランプの電池から、或いは、オランダのフィリップスから、技術を買いまくって、研究したのであるから、鴻海のことをとやかく言う立場にないのも、事実であるが、日本人というモノは、いつまでたっても、やる側から、『やられる側』にまわってしまったことに、気が付くのも遅いモノである。実に、別の意味からすれば日本人には、よいチャンスなのかも知れない。どうみても、おぼこい、のほほんとしたシャープの経営者の面構えと、山東省出身の創業者とでは、既に、勝負は、何年も前から、ついていたのかも知れない。それを日本人は、訳の分からぬ、『技術の海外流出の阻止』などという民族主義的な、感情的な、情緒に訴えるところから、始めては、既に、この時点で、官僚は、負けてしまっているのかも知れない。堪らないのは、それでも、そこで、働く労働者であり、その家族であることは間違いない。残念乍ら、いつも、日本には、そういう『メニュー』が、初めから、用意されていないし、経営者は、用意することをしない。郭台銘(テリー・ゴウ= Terry Gou)は、将来に向けてのそんな準備は、しているのであろうか?気に掛かるところである。

 

2016年2月 4日 (木)

老犬・老猫の介護:

老犬・老猫の介護: 何でも、最近では、ペットの介護が、親や兄弟などの介護よりも、話題になっているらしい。もっとも、かく言う私も、個人的には、両親の介護を、(もっとも、如何にも、自分が手を患わせたかの如き物言いであるが、実際には、女房殿が、その大半を担ったモノである。)足かけ、3年+4年の間、その間、介護保険が実施されたお陰で、随分と、助かったモノであるが、それでも、肉体的、精神的に、介護施設に、預けた訳ではなかったから、自宅で、介護の末、最期は、病院付属の施設で看取ったものである。そんなことあってか、我が老犬の場合には、私が、主として、その晩年には、なるべくすべての面倒をみるという約束で、一生懸命、介護にあたったモノである。随分と、その間、色々と、人生の終末医療に関して、我が愛犬から、学ばせてもらったモノである。口がきけなくても、我が愛犬から、その命を如何に全うするかという重い課題を、人生の教訓として、学ばせて貰ったことは、大変よい勉強であった。確かに、一人暮らしの老人であれば、そのペットの行く末は、とても、心配であろうし、又、人によっては、自分の老後のことよりも、ペットの老後のことが心配になってしまうと謂う逆転現象が、分からなくもない。散歩にも、一緒に行けず、面倒も、みられなくなると云う心配は、切実なモノであろう。災害によって、やむなく、ペットを手放さざるをえなくなったり、自分が年取ることで、手放さざるをえなくなるとか、事情は、様々ではあろうが、誠に、考えさせられてしまう。我が愛犬の場合には、元々、殺処分をされるところを三ヶ月の子犬で身受けして来たもので、何事も、最初から、決めこととして、自然の天命に任せるという大方針の下、18歳4ヶ月という誠に、長寿を全うしたモノであり、死に際も、誠に、私には、勉強になりました。亡くなる前、2年くらい前から、お漏らしと夜泣きが激しくなってきたので、オムツを当てて、庭先から、玄関内へと移して、家族みんなと一緒に、暮らすことになり、最期には、私の書斎で、一日中、一緒に、暮らし、最期には、私が、隣の部屋で、夜鳴きと徘徊に、対応したモノである。事前に、ネットなどで、老犬の異変を検索して、学習していたから、特に、驚くことは無かったし、覚悟もしていたから、冷静に対処できたが、それでも、目が見えなくなり、昼間から、居眠りを始めて、昼夜の違いが分からず、夜鳴きするようになると、流石に、夜中でも、起きてきて、安心するように、身体や顔を撫でてやると、一安心して、又、眠りに入るが、それも、数時間後には、今度は、オムツが濡れてびっしょりで、気持ちが悪いのか、オムツ替えという繰り返しである。まるで、赤ん坊であり、年寄りそのものである。間違いなく、自分も、きっと、いずれは、こうなるのであろうなと思い描きながら、身体を撫でながら眠い目を擦りながら、介護したモノである。晩年の夏には、一緒に、隣に、添い寝しながら、大丈夫、安心して、寝て良いから、、、、、、と身体を撫でて、安心させたモノである。動物の看病というモノは、犬や猫に限らず、考えてみれば、子供の時から、カナリア、ジュウシマツ、インコ、金魚、アメリカザリガニ、カブト虫とか、想い出せば切りが無い。その死を様々な形で、体験して、更には、両親の死を、経て、今、愛犬の介護から、看取りへ、そして、やがて、間違いなくやってくる、自分の被介護・死へと繋がって行くのであろう。そう考えると、実に、興味深いモノであり、又、反面、おおいに、考えさせられるモノがある。

2016年2月 3日 (水)

徘徊防止責任は、どこまで問われるのか?:

徘徊防止責任は、どこまで問われるのか?: 徘徊によって、鉄道死亡事故を起こしてしまった夫の徘徊防止責任を、その事故の損害賠償責任を、老々介護の老妻にどこまで、その責任を問えるのであろうか?何とも、悩ましい議論である。そう言えば、我が母も、痴呆症になりかかった頃には、足腰が弱ったからと云っては、家の周りを手押し車を押しながら、グルグルと、一日に何回も歩き回っていたことを想い起こす。健常者と認知症患者との共生を目指そうとする社会的な目標と、一方で、介護医療金額を自宅介護で、抑制しようとする政府の思惑とでは、如何にも、その着地点が、見えずらいことも、事実であろう。それでは、老々介護ではなくて、もっと、若かったら、それが、息子やその嫁だったりしたら、責任義務があると云う事にでもなるのであろうか?これから、ますます、こういう事件が多発してくる可能性があろう。認知症に伴う様々な事件とか、認知症に起因する問題や、それらに伴う損害賠償の責任範囲は、何処までとされるのであろうか?そんな心配よりも、今度は、こっちの方が、加害者になってしまうかも知れないし、困ったことである。介護する方も、介護される方も、どんなスタンスで、この問題を考えたら良いのであろうか?共生を目指すならば、そこに、存在する損害賠償というリスクも、何らかの形で、同時に、背負う覚悟を、考えなければならないのであろうか?どういう法律的な判断が示されるのであろうか?

2016年2月 2日 (火)

Dynabook は生き残れるのか?:

Dynabook は生き残れるのか?:

1980年代初め頃、米国に、赴任した頃に、初めて、現地で、canonのワープロを、大枚、2000ドルだったと思うが、身分不相応に、購入したことを想い出す。その当時は、まだ、FAXですら、米国では、事務所に無かった時代で、しかも、このワープロには、ほとんど、メモリーらしい、保存メモリーの容量が小さかったから、いつも、タイプしては、紙のロールにプリント・アウトしては、保存しなければならなかった。一番悲惨だったのが、長文をタイプしているときに、たまたま、電話でもあったりすると、一寸、目を離した隙に、インプットした文章が、すべて、パーになって消失してしまい、全く、困ったものであった。それでも、このワープロの購入は、私にとっては、次のWindows95E-mailへと繋がるPCへの序曲であったことを懐かしく想い起こす。その点、90年代には、既に、IBMでは無くて、国産PCを愛用すべく、NECでも、IBMでもなく、東芝のPCを使い始め、これが、後のDynabook ラップ・トップへと繋がっていくことになる。その意味からすれば、この頃が、今日、東芝の不正経理で、一世を風靡している米国東芝社長出身の西田が、一番輝いていた頃だったのであろうか?何とも、今日、富士通・ソニーのPC部門との3社統合のなかで、極だって、3社統合・PC部門の分離・分割への緊急性が、一番、同社が、望まれているというのも、誠に、往事を振り返ると、皮肉な結果である。東芝の青梅詣でと呼ばれた当時のビル・ゲイツや、幻のIBM買収提案の話など、全く、今日では、千夜一夜物語ではないが、誠に、遠い昔の夢物語だったのであろうか?あのマイクロソフト社も、当時は、MSNのプロバイダー事業を、いち早く立ち上げたので、これを利用していたら、その後、何年か後には、その事業事体を切り離し、最期には、サービスの停止と事業の切り離しを決定したことも、まだ、記憶に新しい。誠に、『カスター・フレンドリー』等という言葉は、一体全体、企業利益確保の前には、どのような価値があるのであろうか?私には、もはや、『カンパニー・フレンドリー』という意味にしか、聞こえてこないのは、どうしたものであろうか?既に、Windows10のソフト準備を促すPCからのメッセージが、眼に入ってくるが、一体、パソコン事業は、どうなってしまうのであろうか?そして、日の丸コンピューター、東芝Dynabookは、生き残れるのであろうか?長本人の東芝のみならず、我々素人ユーザーには、実に、悩ましい選択の瞬間であろう。

 

 

2016年2月 1日 (月)

飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

飼い犬・猫の登録頭数逆転間近か?:

何でも、最近、犬・猫を、飼っている人の中で、散歩が、余り、必要では無いという理由で、犬よりも、猫の方を飼うことを、優先する傾向が目立ち初め、その飼育頭数が、逆転間近であるらしい。自分の個人的な体験からして、老犬は、初めから、老犬ではなく、子犬の時から、毎日、朝・晩、或いは、朝・昼・晩の散歩は、欠かさずに、一緒に、散歩に出掛け、こちらも、その恩恵とは言っては何であるが、お陰様で、強制的に、運動をする機会を与えられ、もちつ、もたれつで、お互いに、ストレスの解消をも兼ねて、一挙両得であった訳である。しかしながら、そういうことも、徐々に、お互いに、歳を重ねるに従って、自分も、そうであるが、犬の方だって、同じように、歳をとってゆく訳で、とりわけ、相手の方は、人間さまの6倍ものスピードで、どんどん歳をとって行くのである。そして、終いには、人間さまも、散歩が億劫になり始めると、御犬さまの介護が、待ち受けているのが、昨今の厳しい事情なのであるのかも知れない。成る程、そうなると、動物病院への出費も、自分の医療費用よりも、ずっと、嵩んでくるし、食費だって、老犬食は、若干、高めになってくるし、、、、、、という訳で、犬よりも、猫の方が、食費も少なく、食べる量も少ないし、何よりも、自分で、この寒い最中に、一々、散歩や風呂場で、シャンプーをしてやる必要も無いし、、、、、ということになってしまったのであろうか?誠に、犬の犬種も、昔は、番犬で、外で飼っていたのが、当たり前だったのに、毛足の短い、抜け毛の少ない、しかも、大型犬ではなくて、室内で大人しく、あまり、キャンキャン騒がない室内犬へと人気が移ってゆき、そして、とうとう、それよりも、究極の選択である、諸々の諸般の事情を勘案してみると、総合的に、犬より、猫の方が、人間さまには、問題が多くなく、都合がおおいに宜しいということになってしまったのであろうか?何とも、世の中、世知辛いモノなのであろうか?

 

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